前提として、教育は、全く同じ教育が存在しない。その上で、さまざまな名称で教育が語られているが、大切なのは、そのさまざまな名称で語られる教育の共通点を捉えていくこと。名称だけ新しくても、どれほど、かつての教育と違うのだろうか。
優れた教育や地道な教育研究がある一方、名称だけ新しくて、ほとんど進歩を感じられない教育がある。名称ばかりが新しく、中身は薄い。名称だけが新しく、語られていることも教育そのものも100年以上前の教育論や教育よりも後退していることがある。
大きな本屋に行くと、後者のものがかなりあると感じます。経験が増えていくと、見切る、見極める、区別がつくスピードが早くなってくる。そうして、より大事なことに集中できるようになってくる。歳をとっていくことの良さかもしれない。
 具体的には、教育本の目次を見るだけでわかることがある。本のタイトルや教育の名称はキャッチーで新しい。しかし、その主張する柱となるものは、何も新しくない。内容を読んでみても、パタンの重なりは少なく薄い。
優れた教育実践は、モデルとなるもので、その具体からも、パタンの重なり(圧縮)についても、得られるものがあまりにも大きい。
地道な教育研究は、実践研究でも量的に何かを明らかにする研究でも理論的研究でも、これまでの研究のレビューがあり、学問の積み重ねと真摯に向き合い、何か新しい知識を生み出している(学問を語りながら、そうではない研究者もいるが)。
ショーペンハウエルの悪書は読むなと言う話を思い出すけど、貴重な生命と時間を失わないためにも、こういった区別は大切だと思う。