『明日の世界教育の使命』と新カント派など

崇めてもいないし震えてもいないけど、自分も似たようなものだと思った(昔、『クリスマスキャロル』のスクルージを軽蔑していたのですが、節約や投資の動画をみていて、そのスクルージみたいな人間に自分がなっている、近づいていると思うことがありました。この一節からそのことを思い出した)。こういう人は、よくみられるけど、トッドが文に表したほど、本当に単純ではない。

ただ「小人」という蔑称は、それ以前の大切なことに欠けているかもしれないという意味で(田内学さんの話もそういう話だった)、最適なのかもしれない。貨幣は大事だけど、それ以前にもっと大事なことがあることには同意する。

FIREと言っても、創造や仕事から切り離されるとしたら寂しいもんだと思う。ある人は、嫌な仕事をされていたみたいで、我慢してお金をためてFIREする。向き不向きはあるみたいだけど、FIREしたものの、その虚しさにまた仕事に戻っていくなんていうエピソードも何度も見かけた。

そういえば、ひろゆきみたいに、「人生は暇つぶしである」というそういう人生観の人もいて、振り切っているけど、なんだか寂しいもんだと思う。こういう人生観は、僕は嫌だな。

最近出た田内学さんの本にもあったけど、貨幣についてどう考えるかは重要かもしれない。貨幣を軽視するのもどうかと思うけど、あとから貨幣がついてくるくらいの、そういう生き方がいいと思う。

投資とか節約のユーチューバーの動画を見ていると、ダイウィズゼロとうい本が紹介されていたり、お金をそんなに蓄財してどうすんの?という話題はよく出てくる。そうことも考えていて、トッドがいうようにただ怯えて震えているなんてそういうものでもない。それに、今の資本主義社会の全てがダメということもないし(そんなこと書いていないけど)、こういう人が出てくるのに成功しているだけというのも極端で単純で間違っているだろう(そういう人も出てくるだろうけどね。FIREしても、自分にはお金以外、何もないと気づくのかもしれない。悲劇。節約とか蓄財は大事だと思う。そういう人の中には、空っぽの人もいるかもしれないし、そうでもない人もいて、いろんな人がいるよ。トッドの命題ほど単純ではない。)。

『明日の世界教育の使命』p79

 

プラトンの著作からも教育理論は、取り出せると思うので、これが最古の教育理論なんてことはないだろうけど、知育理論については、流石に400年前のコメンスキーよりは進歩している。

ただここにある原則にある話題が現代でも繰り返されていて、とても面白いと思う。

『明日の世界教育の使命』p85

 

これは見事なアナロジー(類推)。
ただ多数に靡いていくことも(これは多数決を否定するものではない)、少数による専制も否定する、自律した人間形成(文化の人格の形成)が教育では大事だと思うけど、教育機関もそういう時勢の流行りや潮流、権力に左右されずに屹立としているべきだと思う。
と言ったものの、流行りに左右されて右往左往させられているのが、多くの教育現場なのかもしれない。
 教育が目指す目的、価値などの区別が、たぶん多くはついていないだろうから(たぶん、程度の問題なんだろうけど、なんとなくで、かなり無自覚なんだと思う。だから、流行に右往左往させられてしまうのだと思う。100年くらい前の話題が今でも繰り返されて理論的には同じところをぐるぐる回っている。これは現場だけではなくて、一部の学術の世界でも同じようなことがあると思う。現場でも学術の世界でも人によるとは思います。そりゃあ、人によるか。地道に真面目に誠実に生きてきた人なら、当たり前に区別がそれなりについているのかもしれない)。そういう意味で、新カント派の受容の歴史を学ぶ意義はすごくありそうです。ただ、こうしたい、ああしたいという欲望だけではなくて、広く歴史を学んだ方がいい(たいして学んでもいないのに・・・、まあ、だからそう自分に言っています)。一時的な仮説に過ぎないけど、一時的でもそれなりの羅針盤みたいなものを歴史を学ぶことで得られる。
無自覚という意味では、コメンスキーの400年前の教育原則はすごいな。体系的知識と自覚(精緻化するということだけど)が大事なのだ。
多くのカント主義者たちが時流に流されなかったのは、哲学があったからだと思います。
『明日の世界教育の使命』p87

カント抜きでもいいのかもしれないけど、カントを学ばないで、カントよりも深く考えた人がどれだけいるのだろうか。

ドゥルーズは著作でカント哲学を批判して、カント哲学を吟味することで、己の哲学、思考を進めていた(それがどれだけ成功していたのか評価できるだけの力が僕には残念ながらないですけど)。哲学の歴史で、そういう哲学者は、かなり見かけた。

新カント派などのカント主義者たちもそれぞれカントの哲学を応用、拡張していったという意味では、さらに思索、理論を修正、精錬させることができたと言えるかもしれない(失敗しているかもしれないけど)。

カント抜きに考えて、カントの時代の人たちが向き合ったところのどこかでウロウロ、ぐるぐるしている。算数・数学もそうだけど、一から考える必要はない(色々なやり方で発見の過程をそれなりに踏めるようにした方がいいとは思う)。先人から学んで、それらを、言い方悪いけど、踏み台にさせてもらって、後生は生きるべきだと思います。

いつもじゃないけど、たまに思うことがある、教育の世界を見ていて、カント哲学(カント以後も含めて)の歴史を学んでいないから、同じところをぐるぐる回っていると。一部の教育学者の論じていることを読んで、先人の思索を知らないか、軽視しているか、ばかにしているなと思うこともあった。

南原茂もそうだけど、ソ連のなどの一部少数の専政や多数に流されてしまうようなことだとか、日本の戦時中も戦後も屹立した生き方ができたのは、カントの哲学を学んで、思索を深めていたからだと思う。

カント哲学は、絶対的なものではないけど、それも踏まえて批判的に継承するなり、退けるなりして、進んでいった方がいいとは思う。

学問をするなら(学問でなくてもいいのだけど)、プロでもアマチュアでも避けては通れない古典というものがあるとは思う(カントの著作に限らず)。

科学だけでいいよねってなるのかな。その科学を支えている考え方を知るには、科学哲学や哲学史を学ぶこと必須になると思うけど。科学が生産する知識の意味を考えて、過大でも過少でもなく、それなりの精度で評価して判断するためにも、科学哲学や方法論の知識が必要になる。科学の知識を学ぶことは必要だけど、それだけでは十分とは決して言えないだろう。

先人から学んでも、先人についても難し過ぎてよくわからないことも多いけど、全部、一から考えていたら、区別がほとんどつかないまま、人生は終わってしまう。

新カント派受容の歴史も忘れさられていたか、無視されてきたみたいな現状だったのを、伊藤貴雄先生たちの研究チームが研究を進めてきたのが最近だったみたいですし(教育学の世界のマジョリティは、この歴史についてほとんど知らない、区別がついていないというのが現状なんだと思う)、そもそもカントの哲学の教育学への影響の大きさや価値についても大学時代の先生がおかげで知ることができた、かなりたまたまだった、幸運だったのか必然だったのか、奇跡みたいなものなのかもしれない。

知った人の違和感というか、なんとか言語化していくことには、意味があるのと思うので、続けたい。

価値は、体験して経験して考えて掴んでいく部分と、価値を教えてもらうという二つの側面があると思う。一から全部、自力で価値を掴んでいくのではなくて、価値には教えてもらって、はじめて気づける知ることができるということがあるのだ。教えてもらって、結局、体験するなり経験するなりして考えることによってはじめて認識できるのだろうけど。カントの哲学がいい例だけど、教えてもらってとか、研究者の論考を読んでとか、それではじめてわかる、少しずつ区別がついてくるということがすごくある。

パタン・ランゲージもそう。自分で作ってみて、使ってみて考えてその価値がわかってくるけど、そもそも、そのパタン・ランゲージの存在を知る契機や価値について教えもらうという契機があった。

すごい学者さんの知識量はとんでもないけど、一人の人が知れることは限られている。僕みたいな凡人ならなおさらで、たまたま、たまたまと片付けるのはよくないのかもしれないけど、僕が知っていることの一部は、恩師のおかげなのだ。僕も知識が偏っていているし、貧しいけど、それこそ個というのは、その人にしか知り得ないようなところがそれぞれにあると思う。それを役立てることはできそう。