読書 創価教育 

創価教育研究所が出版している『創価教育』と『創価教育研究』を読みました。伊藤貴雄さんという大学の大先輩であり先生の論文は本当に勉強になるし、おもしろいです。伊藤貴雄さんや斎藤正二先生(東大で十年に一人の天才といわれていたと聞いたことがあります。全集級の学者。全集を出している学者は学者の中でもレベルが違うらしいです。斎藤先生の著作を読んだことがあるのですが、それは凄い読書体験の一つでした。)の論文を読むと、超一流の歴史学者の学問を体験できます。


創価学園の一期生(大学時代にお世話になった神立先生)の講演はおもしろかったです。かなりぶっとんだ話でした。かなり笑わせてもらいました。創価学園をつくろうという話、そしてそこでの初期学園の教育の話。


「現今の教育界の実態をみるに、憂うべき事象は余りにも多く、改善を待望する声は、巷に満ちみちている。この悲しむべき現実の底流をなすものは、教育理念の喪失であり、若人の人格を軽視する風潮であり、また、指導者の次代に対する責任感の欠如である。」『創価学園の入学式を祝う』1968年4月4日 『創価教育3号』89項

「教育理念というのは、一体何のための教育なのか、どういう教育なのか、何を目指す教育なのか、ということを明示するためのものでしょう。」「創価学園創価大学創立者」(第1回)『創価教育3号』89項


『ビジョナリーカンパニー』を読み始めたこと、あと大学時代に経営学の先生が池田先生はビジョンを描く天才だとおっしゃっていたことを思い出します。


創価大学の建学の精神
人間教育の最高学府たれ
Be the highest seat of learning for humanistic education

新しき大文化建設の揺籃たれ
Be the cradle of a new culture

人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ
Be a fortress for the peace of humankind


学生への指針
英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな
  労苦と使命の中にのみ 人生の価値(たから)は生まれる

http://www.soka.ac.jp/about/spirit/index.html

何かを読んだ記憶によると「揺籃」という言葉はペスタロッチの本、「労苦と使命の中にのみ 人生の価値(たから)は生まれる」はゲーテの本に近い表現があり、そこから来ているのではないかという話です。人間教育はたぶんペスタロッチ。


あと創価教育学説のスローガン、
「経験から出発せよ。
 価値を目標とせよ。
 経済を原理とせよ。」
は斉藤正二先生の研究から、カント哲学が源流にあることがわかっています。だからぼくの体験から出発するという解釈は半分くらいあっているけど、半分くらいあっていないです。より不正確な解釈。これは思いつきの適当な解釈。もっと「経験」の意味を正確に解釈するには、牧口先生が当時読んでいた本を理解する必要があります。斎藤先生の論文を再読してみて、イギリスの経験論の「経験」とカントの『純粋理性批判』の「経験」は意味が違ってくるということがわかります。カント主義の文脈で牧口先生の「経験」を解釈するとまた異なった解釈になるということです。







学園の立地条件
「一、武蔵野の大地にある。
 一、富士が見える。 
 一、近くに清らかな水の流れがある。
 一、都心から車で、1時間程の距離である」『創価教育3号』93項
「山は王者、川は純粋な精神です。そして、武蔵野の平野は諸君の限りない希望であり、緑は潤いのある人生を表しています。」『新・人間革命』第十二巻、334項

初期の学園の話で、この立地条件を活かした教育をしていて、おもしろかったです。




「牧口先生も、『要は、子どもたちを育てるのに、なにが必要か。これは知力と体力で良いんだ』と。今、巷で道徳とかですね、倫理とかよく言われていますよね。愛国者を育てようとか、道徳が大事とか。道徳の教育はいらないと牧口先生は言うんですよ。牧口先生はね、健康な体力、つまり健康な身体と、それから優れた知力、一般的な知力と言ってもいいでしょう。普通の知力。知力と体力があれば、必然的に道徳というものが出てくるんだと。まともに考えて、普通の健康な身体であれば、道徳は必然的に身につく。それを押し付けるな、というように牧口先生はおっしゃっているんですね。」「創価学園創価大学創立者」(第1回)『創価教育3号』89項


これは牧口先生が二育論について述べたもの。

「知育、徳育、体育の三つの区分は、教育学上殆ど自明の理のように見做されて居て、それは科学者にも、実際家にも、疑を挟む余地のない様に権威を有して居る。従つてこれを基幹として、幾多の選択学科の配当に迄も及んで居る。けれども仔細に精査し、それ等が学問上必然の道理に基いているかを詮索して見ると、いかに思索をして見ても其の区別の要点を見出すのに苦しみ、又実際上の価値より見るも、どんな必要あつての区別であるかの判断に苦しまざるを得ない。」『創価教育学体系』第1巻

「智育をしないで、徳育が出来るか。智育徳育対立の思想は、この両者を全く別の作用と考へた不合理より来る。徳育の一部分をなす道徳的知識に養成は、智育の理法に従うことに於て、智育と異る所がないからである。徳育を含まぬ智育はあるが、智育を含まない徳育は成立しない。それは他の体育と智育との関係とは違う。体育と智育の関係は、両者総合に相包含しないでは成立しない関係がある。両者は一体両面の関係なるが、智育と徳育とは全体と一部分で、しかも発生に前後の関係の差があるのみである」『創価教育学体系』第1巻


「知育偏重」は天皇制絶対主義国家の敵だったみたいです。当時の政府見解に対して「知育重視」を掲げ続けたのが牧口常三郎先生だったみたいです。


正直「心のノート」とかどうかと思う。あれで心が育てば苦労しないと思う。



「僕、よくいろんなところでお話するんですけども、人間ってものを考える時にどうやって考えるか、という話です。人間がものを考える時に、何を使って考えるかというと、日本語使って考えているわけですね、私たちは。頭の中で自分と会話をするわけですよね。日本語で考えるわけですか、日本の力というのは、すごく大事になってきます。日本語の力というのは一体何かというと語彙量なんですね。語彙力が豊富であればあるほど、考え方は広くなるし、深まります。だから、どれだけ言葉を知っているかによって、人間の考え方の広さと深さに差が出てくるんです。じゃあどうすれば語彙力がついてくるのかというと、読書です。間違いなく読書です。読書とそれからもう一つは、新しい言葉を知るのに最も適切な方法は、詩を読むことですよね。詩というのは言葉をぐっと省略した、いわゆる言いたいことを、一つの言葉に凝縮するわけですから。」「創価学園創価大学創立者」(第1回)『創価教育3号』104項



斎藤先生の「価値は教えられて分かるもの」という見出しの話がおもしろかったです。考えさせられる話。たしかに教えてもらったり、体験してみないことには価値は分からないのかもしれないです。


「人間が勉強して対象を追求して行くならば、よほどのことがない限り、最後の『真理』に到達する。ところが、『価値』の方は、たとえば、道徳的な正義については、教えてもらわないと分からない。経済的な利益についても、探求すればいつかは誰でも金持ちになれるとういものではない。
 芸術についても、やはり我々はバッハやハイドンモーツァルトやベートーベンという大先輩から、これが美なんだよ、と教えられたから、美しい音楽というものがどういものかを分かるのです。
『人間になりますと、人間というのは教えてもらうことによって、人間のあり方を教えてもろうて生きがいを感じる』というのは、こういうことなのでしょう。
 私は、自宅に訪ねてきた女子学生が『先生、トレイを貸してください』と言うと、怒ります。『駅でちゃんと済ませてきなさい。デパートのトイレが一番きれいなんだから』と。こういうことは、人に教えてもらわないと分からないんです。教育は、そういうことが大事なんですね。単に勉強して、探求して、考えに考えた結果、他人の家のトイレは借りるものでない、という結論を出すということはあり得ません。」「牧口常三郎研究の第三段階のために」『創価教育』3号155項

これは湯川秀樹梅棹忠夫の対談『人間にとって科学とはなにか』という本からの話。その本からの引用。

「人間になりますと、人間というのは教えてもらうことによって、人間のあり方を教えてもろうて生きがいを感じる。これ、非常に突き放したいい方やけれども、大多数の人間は教えてもらうことによって目的とか価値をつくるんで、ほっといたら、価値体系なんか何もつくらんじゃないか。価値体系というようなものは。生命の進化の中で、非常に複雑なプロセスをくぐって現れるものなのですね」『人間にとって科学とはなにか』77項


湯川秀樹は言っています。『今から二千数百年前に、大宗教家や偉い思想家がぼつぼつ現れるでしょう。そういう時期がある』釈迦や孔子ソクラテス、それから四百年遅れてキリストが出ますね。こういう時代をヤスパースが『枢軸時代』(Achsenzeit)と言っています。この四人の偉大な思想家、宗教家が誕生したことは、人類にとって本当に幸運だったのです。
 そしてこう述べています。『それ以前もあったかもわからんけれども、それ(=偉大な思想家)がかたまって出てくるときでさえも、実際には非常に少数です。少数の人が広い意味での価値体系というものの重要性を教える。それによってたくさんの人が教えられ、価値体系がどんどん広がる。これはたくさんの人が、それぞれ別個に、独立して、自分の価値体系をつくるのと全然違う現象ですね』。
 たぶん、われわれも『価値』について考えるときに、この湯川の指摘を頭に置いておくとよいでしょう。宗教を例にとれば、宗教学のように、『真理』の一部分としての宗教というのは当然あります。しかし、宗教そのものの『価値』を自分のものにするには、いくら宗教学を勉強してもダメなんです。宗教学を勉強して、やれ信仰がどうしたとかカリスマがどうしたとか勉強しても分からない。
 ではどうするとよいか。宗教の価値を自分で体得し、自分の血肉とするには、やはりそれを教えてくれる教師、あるいは偉大な宗教家が必要である。このことを科学者である湯川秀樹が述べているのです。この観点から、私たちは、改めて『価値』を自分のテーマとして引き受け、考え直す必要があると思います。」「牧口常三郎研究の第三段階のために」『創価教育』3号155項



斎藤正二先生の研究の価値も、伊藤貴雄先生に教えてもらって体験して、分かることができたと思います。独りではたぶん分からなかっただろうと思います。最初は変なおじいちゃんとしか見てなかったです。そういえば、高崎隆治先生の研究の価値も、伊藤貴雄先生に教えてもらって、少し分かるようになったと思います。牧口先生の思想と行動の価値や意味も、価値が分かっている斎藤先生や伊藤先生の論文に教えてもらうことではじめて分かるようになったと思う。