読書 斎藤正二著作選集7

斎藤正二著作選集 7 教育思想・教育史の研究

斎藤正二著作選集 7 教育思想・教育史の研究


 この本で引用されている『無意識の幻想』にあるロレンスの児童中心主義理論への反論。学校流儀で教えることは全部悪だと言い切っているし、たしか最近の教育は表現力重視であるべきだとなっていた思いますが、「自己表現の力を子供に発達せしめる」ことも避けるべきだと論じているし、考えちゃいます。その前の話とは矛盾しているような気もするし、うーん…。真の啓発的な教育とはなんなんだろうか。表現力=知性ではないとうことか…。

思い出すのは「牢獄のような学校なんてぶっこわれて遊園地になってしまえばいいのに」と言っていたある小学校の3年生の子がクラス目標をつくるときに「まいにち学校に行きたくなるクラスにしたい」と発言していたことです。


「かく考えてくれば、在来の教育法を続けてゆく場合においても避けなければならぬのは、いわゆる自己表現の力を子供に発達せしめるという一事だということが分ろう。彼の自意識といわれる想像力とを人為的に刺戟することを慎しもう。我々の現在為していることは、子供を歪めて自意識なる戦慄すべき状況に追いこみ、他人の前で光ろうとする見栄坊に仕立てあげる、――そしてこの見栄坊に仕立てあげれば我々は満足なのである。ほんの破片の自意識でも子供に生れたらそのときは万事休したので、あと偽りが残るだけである。
 ABCや簡単な算術で難航する方が遥かにました。現代的方法は子供たちを鋭敏にする、一種の巧緻さをあたえる。だがそれが害毒のはじまりなのだ。結果は大きな『不安』を抱える神経過敏な、ヒステリカルなプロレタリアを生み出すことに終わるのだ。子供が五歳がになったとき、彼に『理解する』ことを教えはじめ見よ。太陽や月や雛菊や、とんでもないことだと思うが生殖の秘密など、教え込んで見よ。理解、理解と弛まず仕込んで見よ。そうすればその子供が二十歳になったとき、自ら作り出した悲しみに対してヒステリカルな理解を持つようになるだろう。それでその子供は破滅なのである。理解とは悪魔にほかならぬ。
 子供というものはものを理解してはならぬ。子供特有のやり方でものを所有しなければならぬのだ。子供の持つ影像は我々のと異っている。八歳の少年が馬を見るとき、我々が彼に見させようと望むような正しい生物学的対象を見るのではない。彼の見るのは髪の毛が顎からぶら下り脚を四つ持っている大きな生きた存在なので、特に明確な形は採っていないのである。その横顔に眼を二つつけたにしても、彼は彼として正しいのだ。何故なら彼は光学的な写真的な見方でッ見るのではないから。彼の網膜上の影像は彼の意識の影像とは別なのだ。網膜上の影像はそのまま彼のうちに入りこむことはない。彼の無意識は強力な存在、――朦朧と四囲から浮びあがっている、二つの眼、四つの脚、長い鬣をそなえた存在、――の強い暗いおぼろげな予知で充たされているのである。
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 ものの見方はひとつにとどまらぬ。ものの見方は多様なのである。そして影像は、子供たちにとっては――情熱的な成人にとってもそうであるが、――単に生動する不定の影なのである。この生動する影のうちに、魂は己の真の通信者を見る。このいずれの場合においても、暗きヴァイタルな一つの存在と見る。さて、角、方形、長細い尾、ーーこれらの牛の形の、恐ろしきまで驚嘆すべきまでに正鵠を得た形成要素にほかならぬのであって、これをダイナミックな魂は剰すところなく知覚するのである。子供にとっては、理想的に完成された形像は自然にはずれたーーなにか虚偽なものと見える。絵の場合でも、子供は本質的な認識を求めるのであって、正確とか表現とか求めるのではなく、とりわけ、我々のいうとところの理解などは求めはせぬ。子供が形を歪めるのは不可避なダイナミックな理由によるのだ。ダイナミックな抽象は知性以上のものである。もし子供の絵において大きなひとつの眼が頬の真中に描かれるとすれば、これは、眼の深奥なダイナミックな認識、――その相対的誇張が、科学的に偽であっても、生命的に真であることを示しているのである。
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 問題の核心は、学校流儀で子供に教えるのは、なにを教えようと罪悪にほかならぬ、ということである。子供をたち集めて、頭脳を通して教えるのは、断乎として悪である。それは動的意識をまったく餓死せしめ、不毛の頭脳知識を代償として得るにとどまるのだ。中流階級の子供たちは現在かくも生命の貧窮に追いやられているので、とにかく生きているのが奇跡なくらいである。下層階級の子供たちはこれに比すればまだましだ。街に逃れることができるから。だがプロレタリアの子供たちも今でも羅病れているのだ。
 そして言うまでもなく、批評家諸君が指摘されるように、雨後の筍のごとき学校と新聞の御託とのおかげで、今日人は食人種が如く野蛮に、食人種よりも危険なものと、なっている。生きたダイナミックな自我は教育されず自然性を剥奪されるのである。
 我々は教育についてーー子供の自然知能の啓発について、語る。だが我々のなしている教育は、啓発の逆なのだ。それは頭を通じて頭脳的知識を詰め込むことなのであり、したがって根元の意識中枢を歪め、窒息せしめ、餓死せしめることである。そのうち結構な審判日がやってくることであろう。」226項
 

図書館にあるみたいなので借りて、特に引用された『無意識の幻想』の文章があったところの前後を読んでみようと思います。この引用の前の章でロレンスはルソー的教育観に接近したらしい。上の引用は、その章のあとの文章です。
引用が「かく考えてくれば」とあるから、その前の文章を読めば、引用の文章の理解が深まると思う。ロレンスはなぜ表現力を発達させることをここまで否定するのか。この文章だけだと心にストンとは落ちてこないです。前の引用から考えると表現力重視ではなく知性重視の教育がいいという主張を読み取ることができると思います。では知性を育てる教育とは具体的にはどういうことなのか。やはり繰り返しになるけれど表現力の育成をここまで否定するのはなんでなんだろう。否定する理由はここに書いてあるとおりか。でも元の本を読めばもっとわかるはず。