ちょっと長いけれど鶴見俊輔さんの本からメモ。確認したかったところの前も。
「山下の証言を私は素直に受け入れることができる。というのは、山下より二年遅れで、私が彼とおなじ中学校に入学することができたのは、戸田城外著の時習館式の国語ならびに数学の参考書に助けられたからだったのだ。それらの参考書は、受験勉強の書であるにもかかわらず、人生経験から勉強に入るように仕組まれていた。私は、小学校でビリから五番だった自分が、この参考書を与えられて急に勉強に対する意欲の動き出したのをおぼえている。」(鶴見俊輔牧口常三郎戸田城聖」『鶴見俊輔著作集3』1975年)
ここでいう山下肇さんという人は、岩波書店から出ているゲーテの翻訳で知られている人です。
二年前くらいに中央大学の図書館まで行って、全部コピーさせてもらったのは、ここに出てくる『推理式指導読方』という国語の参考書です。
鶴見俊輔さんの証言の通り意欲を引き出す工夫がある参考書です。「人生経験から勉強に入るように仕組まれていた」という鶴見俊輔さんの言葉が興味深いですが、根本的に文型応用主義という牧口の考え方を算数や国語の参考書に応用したところに、この参考書の良さがあるように自分が思いました。多分、このときに戸田が作った参考書は、今の受験参考書や、学校の教科書よりも優れているところがあると思います。教材のもつ力が子供たちの自然の思考の流れに沿っていて、意欲を引き出せるようなものだったら個別化の教育にも役に立てると思います。
鶴見俊輔さんと直接の関わりはないのですが、ゲーテ研究で京都大学の大学院を目指していた先輩が悩んでいたときに、京都の方にあった鶴見俊輔さんのご自宅にアポなしで行ったところ、快く相談に乗ってくれたそうです。鶴見俊輔さんは、突然家に現れた無名の学生を大事にしてくれるような人柄の人だったようです。他にも小熊英二との対談集を大学時代に読んだことを思い出します。
「牧口が小学校の校長だった頃、二十一歳の青年教師だった戸田城聖(本名は甚一、当時城外と称した)が、北海道から上京して来て入門した。戸田はしばらくして小学校をやめ、受験勉強の助言者として、おどろくべき才能を発揮するようになる。有名中学校には十人に一人しか入れないという昭和はじめの受験地獄をよそにしては、戸田が組織した時習館という助言者組織のおどろくべき成功は、理解できない。
 時代はすでに大正から昭和へ、成金の時代からせちがらい時代へと移っていた。小学校そのものの授業は、つめこみ教育となった。受験勉強の助言者は、すでにのどもとまでつめこまれた子供たちにさらに強引につめこむことによっては到底受験に成功させることはできない。この時、牧口常三郎ゆずりの価値教育の教育哲学が、奇妙に役立つことになった。第一歩は、つめこまれすぎて勉強にいやけのさした子供たちの心に、興味をかき起すことだ。彼は時習学館の前の坂で子供とソリすべりをやったり、夏は海水浴に小供をつれていって大あばれをしたり、そのあい間あい間に勉強がおもしろくなるようなひと言、ふた言を、アイクチのように子供の心に突き入れた。この呼吸の妙を、当日時習館にかよっていた山下肇が私に語ってくれたことがある。
『なにしろ先生がサルマタひとつになって海に入ってきて、それを僕らが沈めたりして、キャアキャア言って遊ぶんだからね。』
 戸田は、みずからを道化とすることで生徒たちを解放するコツを知る、すぐれた教師だった。それはある意味で、聖者の資格でもあるかもしれない。そして受験勉強のためにあつまってくる子供たちのうちに活力をよみがえらせる修練の中に、戸田独自の哲学としての生命観が用意される。
 山下の証言を私は素直に受け入れることができる。というのは、山下より二年遅れで、私が彼とおなじ中学校に入学することができたのは、戸田城外著の時習館式の国語ならびに数学の参考書に助けられたからだったのだ。それらの参考書は、受験勉強の書であるにもかかわらず、人生経験から勉強に入るように仕組まれていた。私は、小学校でビリから五番だった自分が、この参考書を与えられて急に勉強に対する意欲の動き出したのをおぼえている。」(鶴見俊輔牧口常三郎戸田城聖」『鶴見俊輔著作集3』1975年)


鶴見俊輔著作集3巻に入っているデューイについての論考も面白かったです。コミュニケーション、ディスコミュニケーションの哲学について。デューイは理想としてのコミュニケーション(教育)の改善にかけた。それはディスコミュニケーションを避けられず、とても遅い歩みではあるけれど、最も確実な道なのかもしれない。