3学期の算数の研究授業の授業者になってしまったり、
そのことについてもアドバイスもあったり、
単元の終わりということもあり、
学び合い(一斉)を今日やりました。
書画カメラを使ってノートの図を拡大させてから説明させた。


前はほとんど説明できなくて学び合いも練り上げるも何もないと思ったけれど、
まだうまくないですが説明できる子が増えてきました。


しかしこの子どもたちの発表(説明)後に数字を変えて説明しなおさせるパフォーマンス課題を設定すると、分からない子は分からないままだったということが分かります(ここで友だちや教員の支援が必要)。パフォーマンステストをしないでただまとめるだけで学びあったね、よかったねで終わったらより問題が出てくると思います。最後のペーパーテストで悪い結果が分かっても後の祭りだと表現していた人もいました。





発表を丁寧にやると扱える問題数が減る。トレードオフになっている。
正直に一斉に練り上げる学び合う必要性と価値について考えてしまいます。






19歳くらいの時に
算数・数学関連の本をいろいろ読んで、
算数・数学のほとんどの営みは証明(説明)だということが分かりました。
そこでいい本に出合えて数学の美しさにもふれることができました。


証明(説明)は概念の理解が基本でそこから理詰で積み上げていくものです。



学び合うことよりも算数の計算のしかたや概念を理解することのほうが上位の目標だということを考えます。あくまで学び合うのは算数の概念などを理解するための手段であり目的ではないということです。ここ本末転倒になりたくないなあとその可能性に危惧します。



問題把握のところで半具体物や具体物を使う、ICTで拡大してわかりやすくなどの改善がまだできると思う。そこで少し分かる子が増えるかもしれないです。全体で理解できない子は個別につまずきを分析して個別の手立てが必要になります。


常に個別にはいってくれる方がクラスにいるわけではないので(担任一人の個別指導の時間にはとても限りがあります)、
西川先生の学び合いのような個別で救われるような機会のある場面が必要だと思います、主に自分の今のクラスに関してですが、そうではなくても。



とにかく理解のための環境改善に努めるしかないです。具体物も用意するか。
上條先生が言われる合法的たち歩きによる学び合いも環境要素の一つですね。何を選ぶのか。どうするのか。



説明させる機会が自力解決だけのところだけでは足りないということは言えると思う(その後の考えを発表して全体で聴き合う一斉の学び合いも含む)。



説明することがたくさんあるので、少しずつ子どもたちはそのことがうまくなってきたと思います。