今日は研究の長の先生が授業をみてくださった。

ズバリと切られましたが、
一斉授業に限らない授業の真髄について語られていました。

学習内容に関する仕上がりからの一本筋が通った指示であったり発問であったり。
その語られた中でも最も大切だと思ったのが、
どのような子がいて、どのような関わりをするのか考えるのかという看取りに関わること。つまずく子や評価基準を達成する子なども含めていろいろ想定できる子たちにどうかかわっていくのか。
これはファシリティブな授業でも変わらないと思う。どう看取ってどうカンファランスするのか、環境改善するのか。


そのためのストックや、授業までの準備が必要。そこを外すとどんなタイプの授業でも残念なことになってしまうと思う。


読書指導に関してが僕の中で一番看取れるかもしれない。できる子にもできない子にも関わり方のストックも少しあるし、何が必要なのかも学んできた分は看取れます。



一斉授業の場合、できるスピードの差を縮めるような工夫や、できる子がさらに違う課題に挑戦できるようにする工夫などいろいろある、そういうことも含めて勉強になりました。


休む時間を削ってまで授業を見ていただいて教えてもらえてとても有り難いことでした。


授業改善がんばります。


と思ったのと同時にペスタロッチの言葉も思い出して、
学校の仕組みや個人の技能に左右されない方法も大切だと思いました。
ある地域で底辺だった学校がその地域の中くらいの学力になったという、かなり独特なチャレンジをしている学校に勤めたことがあるのですが、その学校の学力の向上は間違いなく、その学校が全体で取り組んでいる仕組みにあると思いました。そんなことも思い出しました。



「学校教育の場合特に次の点が確保されていなければならない。すなわち教師の力がほんのわずかしかないと推定されるときにも、彼はそのために害を受けないのみならず、かえって目的にかなった進歩がなされなければならない
(この点は重要だ。教授法を行う個人の技能がすぐれているためというより、その方法の様式の本性そのもののために成果が挙がるというような、そのような方法が用いられ、すくなくとも初級の知識の修了までは、教師をそのような方法の単に機会的な道具にするような教授方式が発見されない限り、民衆教育を広く一歩前進させるなどということはとうてい考えられないと私は信じる。 」46項 『ペスタロッチ全集8巻』平凡社