Kさん

切り文の横行に心を痛めています。
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」という一文は、祈りが全然かなっていない日蓮が言っているのですよ。他宗から見たら、単なる負け惜しみです。国主諫暁を無視され、道善房の折伏は失敗し、佐渡流罪時に「湿れる木より」と鎌倉の弟子の安穏を祈ったが、ほとんどが退転した。その日蓮が言うのです。日蓮の生涯は、祈りの叶わない事例の連続です。
この御文は、本来は「わたし(日蓮)は本当に法華経の行者たりえているのか?」という問いかけです。純真な人が報われない、という不条理にたいする挑戦です。遠藤周作の小説『沈黙』が取り組んだテーマ。聖書「ヨブ記」に通底する、神義論の究極的問い、かのアドルノが『啓蒙の弁証法』で主張した、近代啓蒙主義の安直な物語信仰にたいするアンチテーゼと一緒です。祈ったら、かならず結果がでるよ、という物語からの脱却、挑戦です。
そう考えたら、物凄く深い日蓮の思想性が見えてきませんか。
ほんとうに、疲れました。

メモさせてください。すみません。
僕はkさんやTさんをたよりに考えないと前に進むことが難しいです。
安易な物語(ナラティブ)がたくさんある。
だけど物語にも意義がある。ナラティブの意義と限界。


ろくなことがないのに、祈り続けることがによって、世法から抜けられるか。