縁起と因果

Kさん

みな、「縁起」と「因果」を誤解しています。仏教の専門家ですら、誤解しているひとが多い。けっこう昔から、同じような意味だと思われてきました。ほんとうは、正反対な意味なのです。
このことを明治期に訴えたのは、浄土真宗清沢満之でした。真宗の教義の近代化、いな、普遍化に取り組んだ、気骨ある人物です。清沢は、「縁起」と「因果」の違いを、次のように説明しました。
花びらの落下を例にとりましょう。
木の枝にボールがあたって、直撃を受けた花びらが一枚、散ったとします。ひらひらと舞った花びらは、どこに着地するでしょうか。
これを予測するには、さまざまな要素を考慮に入れなければなりません。①ボールの衝突にかかわる力学、②花びらの初速度、③大気の状態、④地面までの距離、等々。しかも、これらが「同時」に生じ、かつ計算可能でないと、花びらの着地点は明らかになりません。「ボールの衝突」と「花びらの着地」のあいだには、それこそ無限とも思える関係性が存在しているのです。
ここで、清沢は言います(清沢は、花びらの例えは使っていませんが)。「縁起」も「因果」も、「ボールの衝突」と「花びらの着地」のあいだの関係性を指し示す言葉であるという点では、同じである。しかし、ベクトルは正反対である、と。くわしく言うと、
・縁起は、「ボールの衝突」→「花びらの着地」のときの「→」を指す
・因果は、「ボールの衝突」←「花びらの着地」のときの「←」を指す
ということになります。つまり清沢は、物事の発生からその到達点へ、というベクトルを「縁起」と、その逆を「因果」といったのです。
え?それだけ?と思われましたか。そうです。これだけです。ただ、ベクトルが逆というだけで、その価値は大きく変わってきます。「花びらの着地」という到達点から「ボールの衝突へ」という関係、つまり「←」を分析するとします。それは、こういう問いになります。
なぜ、花びらはここに落ちたのか?
これを研究するのは、かなり楽です。なんと、この問いに答えるには、①〜④等のなかの、どれかひとつでもつながりを明らかにして成り立ちを証明すれば、それで解答になってしまう(科学哲学や論理学などを学ぶと、この仕組みがよくわかります)。③にのっとるなら、「花びら落下時の風がこうで、空気抵抗がこうだったから、花びらはここに落ちた」。これで済んでしまう。結論に合うように空気抵抗を数値化すれば、説明は完成です。完全に関係が1本の線で結べる。つまり、「←」=「因果」は、「必然」の話として説明できてしまうのです。
では、逆はどうか。「→」は?その問いは、こうなります。
落下しはじめた花びらは、最終的にどこに落ちるか?
これに答えるのは至難です。なぜか。①〜④等の、すべての要素をつかまないと、正しい結論がだせないからです。しかも、これらが「同時」に生じないといけない。すべてを同時に把握するのは、現実的には無理です。だから、もうこれは、「たまたま」というしかない。説明ができない。つまり、「→」=「縁起」は、「偶然」の話として語らざるをえなくなるのです。
因果は必然、縁起は偶然です。
歴史学者や経済学者が、よく未来予測を立てますね。それで、あまり当たらない(笑)。でも、過去の出来事の「なぜこうなったか?」は説明できる(ようにみえる)。因果は説明可、縁起は説明不可、そういうものなのです。科学や論理学って、おもしろいですね。
ついでに、おもしろいことをつけ加えます。なんと、「縁起」という言葉のもとになったサンスクリットのひとつ、「pratyaya」は、「偶然」というニュアンスをもつのです。
清沢は、カント的な哲学の立場は、因果と縁起を混同している、と批判しました。当時、カントは西洋思想の神でした。
「祈りは叶う!」は、因果論です。
それにとらわれない境地は、縁起論です。
日蓮は、因果論を捨て去りはしませんが、重心はつねに縁起論に置いていました。だから、因果「倶時」と。つまり、「同時性」にこだわった。同時という前提で因果論をとらえれば、決定論、運命論みたいなものから逃れられる。因果倶時の主眼は、あくまで縁起論です。
清沢は、こういった話を、歯切れよく述べました。『法華経智慧』にでてくるような、おもしろい話が、彼の著作には、バンバンでてきます。浄土真宗の教学は、彼によって息を吹き返し、明治以降、真宗は、伝統仏教最大の教団になりました。
ちなみに、清沢がこれらのことを述べたのは、『法華経智慧』連載開始の、約100年前です。
清沢は、当時、科学万能主義も批判しています。科学が発達すれば、未来は明るい!みたいな信仰が、世界に広まりつつあった時代に、です。科学にも限界があるよ、と。科学万能主義から人類が目を覚ましたのは、いつですか?レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版したのは1960年代、ローマクラブが『成長の限界』を訴えたのは1970年代です。わたしが生まれた1980年代になっても、多くのひとが、科学信仰をもっていました。それで、順調に科学が発達した未来が、「Back to the Future」なんかで描かれた。いまは、21世紀ですよ。周囲は、どうですか?
単純比較はできませんが、真宗教学は、いろんな意味で、われわれよりずっと進んでいるとわたしは思っています。


とても勉強になります。
後学のためにメモ。


教育学も似たようなものだろうか。


ただ因果論や科学が有効に働くところはあるか。
そうじゃないとロケットを月に飛ばすことはできない。
ただ複雑な現象の科学的な説明や予測は難しく限界がある。


教育学も
いくらか、
認知科学や哲学的な思索、科学的な実験から、
原則と呼べるようなものが導き出せるかもしれない。
でも、そこから必ずこういう人が育つと予測することは現実的に不可能。

教育学も
いくらか予測できるだろうけれど、
必ずこうなるとは説明、予測はできない。


この違いが分かるって大事なことだと思う。


ただ因果論がすべて幻なら、
計画をたてることは無駄になるかもしれない。
すべての医者がヤブ医者になってしまう。

そうでもなさそう。
ただその限界を知っていることが大事なのかもしれない。
その限界はこうやって論理的に知ることができる。


人間の未来もそうか。
いくらかは予想できる。天気予報みたいに。でもそれは確実ではない。


複雑性。

偶然。
いろいろなことが上手くいっていても、
誰でも何か突然に風が吹くみたいにダメになってしまうこともある。


にもかかわらず、どう生きるのか。


社会のこと。