「直観なき概念は不毛であり、概念なき直観は盲目である」イマヌエル・カント


豊かな直観と概念の積み重ねが知性を育てるのだと思う。育てるというかそれらが知性の土台になる。



やはりロレンスや夏目漱石牧口常三郎を思い出します。


そりゃあ、本当に知性が育っていくと、
中身が深くなっていけば、人は変わる。違う未来が待っているよ。
本当に知性のある人は弱い者いじめなんてしない。


若き日の牧口常三郎を分析した論考があるけれど、
いきなり牧口常三郎が育つわけではない。
牧口常三郎という人が創られていく自然や社会、地域の環境があった。


「若きカントの思考形成」という本もあったけれど、カントも変わらない。


1905年を境目に教育環境は変わったと鶴見俊輔が指摘してた、確か。
もっと地域の人の繋がりが濃かったみたいです、昔は。だから学校教育だけの問題は特にない。
たぶんモンスターペアレンツなんて、そういう名前で表すような現象はたぶんほとんどなかったのではないかな、調べてみないと分からないけれど、僕の予想。今の公教育をサービス業だと勘違いしている状況がなければ、そういう現象は起きないと思う。


もっと昔は放課後に勉強を見てあげたり、遊んであげたりとかしていたんじゃないかな。
今はたぶん失敗やクレームを恐れて、それだけじゃないけれど、安全のためとかそういう理由で、子どもたちを残さないのが普通になってきていると思う。ふつうの人の教育観や学校観が今の状況を作っているのではないかな。


かつかつで時間的な余裕が大人にも子どもにもあまりないような気がする。



外国は外国で様々な問題を抱えていて、此の地球社会はこれからどうなっていくのだろうか。


算数なんか積み重ねで、
全体で練り上げるよりは(全員にレディネスがあって練り上げられるならいいですけど、そうでなければ、はじめから見捨てていることになると思う。既知から未知へが基本だけど、既知が足りなすぎるっていう。そういうレディネスのない状態で授業を受けることの無意味さ)、
いつでもその個に応じて戻って、学び直せるほうが重要だと思う。


そのための時間の余裕は生み出せないのか。
今の学校で時間を使っているすべてのことは本当に必要なことなのだろうか。


一斉にがーっと進んで行って、学び直す時間はほとんどない。
授業の中で戻りながらやるしかないか。


あと家庭のフォローにたよることになるけれど、
それがもう少し学校の中でやれるといいと思う。


分からないまま中学校に行って、
またそこでも置いていかれて、その後も選択肢がどんどんなくなり、そりゃあ辛くなると思う。



でも
昔よりも犯罪は減っていっているらしい。
暗い面だけ見てだめか。いろいろな意味でよくなっている部分もたくさんある。


いろいろ課題はあるのだろうけれど、
たぶん一つは、日本の多くの現場の教員は、とても真面目で優秀で、奮闘・改善が積み重なっているからだと思う。学校のほんの一部の要因に過ぎないけれども。



時間的に余裕があって、地域の繋がりが濃いから犯罪が少ないというわけではないようです。
何がいいのかな。



書いて考えてもなんだか空しいけれど、

子どもたちの成長を精一杯支えていくしかないか、できること考えて、小さなことでも少しずつやるだけ。