対照的な出来事があった。
まず強制的な出張の研修。
話していた先生方は誠実な方だったので、人に対して思わないけれど、研修の内容は苦痛でうんざりするものでした。アンケートも嘘ついてしまった。1とか2なんてつけられないです。
免許更新の最新の教育事情とかいう薄っぺらな網羅的授業と内容が重なっていたし、重なってなくても苦痛だったと思う(だって、もっと具体的なレベルで論じられている本を読んで、実践レベルでずっと考えてきたことです。もうアクティブ・ラーニングだ、カリキュラムマネジメントだ、定義レベルの話は、もういいよ)。意図は分かった。いろいろ資料を紹介して、後で自分でアクセスするか、最低レベルでも知っておいてほしかったのかもしれない。
僕は子どもたちをプリント課題で放ってきて(そこに入ってくださる先生もいて)、その後に仕事をすることもできない。そういう大きなコストがあっての研修。それに見合った価値のある研修なのかと普通に考える
学んだ事。決意したこと。
・まず網羅的な授業はできるだけ避ける。
・計画的にやる限り、どうしても起きてしまうけど、教育のミスマッチができるだけ起きないように少なくなるように努力する。
ドルトン・プランの教育 (1974年) (世界教育学選集〈80〉)
- 作者: パーカースト,中野光,赤井米吉
- 出版社/メーカー: 明治図書出版
- 発売日: 1974
- メディア: ?
- この商品を含むブログを見る
そのあとで居酒屋にまた行ってしまい、ビールを飲みながらこのパーカーストの本を読み始めた。
まさに教育のミスマッチに問題意識がある内容で、すぐにイエナプラン教育やサドベリースクールを思い出した。
牧口常三郎の本には、たしか少し否定的な感じで出て来た記憶がある。ドルトンプランって、とても流行った。けれどまったく見られなくなってしまった。そんな文脈でドルトンプランが牧口の本に登場していたと思う。
しかし、今のオランダのオルタナティブ教育では、イエナプラン教育よりもドルトンプランの学校のほうがより広がっていると聞きました。
僕はドルトンプランなどにシンパシーがとてもある。でもそれを手放しで賞讃はできないと考えているけど、やはりとってもシンパシーがある。それが今日の研修で心底思ったことです。
たぶん計画的にやる限り、ミスマッチが出てくるリスク、可能性が原理的に出てくるのだと思う。でもミスマッチを少なくする工夫や努力はできると思う。
小学生でもミスマッチが起きるけれど、中学生や高校生よりも起きにくいと思う。
それなのに、そのミスマッチに対する配慮が小学校の授業よりも少ないのが僕が受けて見た多くの公立の中高の授業でした。
ずっとずっと前から思う。
網羅的な話よりも、まともな同じテーマの専門書を一冊読んだほうがいいよ。
算数・数学も同じだよ。
学校じゃ全然面白さって分からなかった。
まともな数学の本を読んで、はじめてこの分野の美しさの価値に気づけました。
算数・数学でも、化学など科学でも古典的な良書を読んだほうが、網羅的な話をされるより、よほどいい。
理科は実験して、直観し、概念を作るものだから。それとは別だとは思う。塾ではなかなかそんなことやってくれない。
今日の研修の話で一番心に残っているのは、
「ゆとり教育」はマスコミが作った言葉だということ。
最近、大学の文系学部の廃止とかいうのも、マスコミが文科省が出したことを拡大解釈してわあわあ騒いでいた事です。心底、下らないと思う。
これが休みの日に僕が選んで進んでいったところで、こうだったら、僕の見る目が悪かったと、あまりその研修や講座に対しては思わない。
これが免許講習みたいな強制的なものだと話が違ってくる。