本 斎藤正二著作選集7 教育思想・教育史の研究

斎藤正二著作選集 7 教育思想・教育史の研究

斎藤正二著作選集 7 教育思想・教育史の研究

考えさせたれたり大切だと思ったりしたところを一部噛み締めながら引用します。


D.H.ロレンスの教育思想
「けっきょく、ロレンス教育理論の最重要ポイントは、知識を習得する手続を以て最終目標と見做そうとする現代学校教育界の俗論俗見を断乎捨て去り、被教育者それ自身が当該知識取得をとおして自己内最奥処に鬱勃と沸き滾る生命衝動に開放と創造との契機を与え得るよう電磁回流を作動せしめよ、というふうに約言=凝縮し得ようか」223項


「いっさいの学校をただちに閉鎖せよ。少数の技術訓練の設立物を残して、そのほかはいっさい不要だ。人類を少なくとも二世代の間、休養させよ。自身の抗えがたき欲望によって自づと読書を学ばぬかぎりは、子供をして読書を学ばしめるな。
 読者よ、これは私の真面目な諫言なのだ。だが君が耳をかしてくれると思うほど私はきまぐれじゃない。だがもし君が耳をかしてくれると信じられたら、私も波うつ希望を感じられるだろうに。また君が耳をかしてくれなくっても、いずれ災禍が君御自慢の学校を閉鎖してくれるだろう、これは嘘じゃない。
 根源の意識から知的意識への移行の過程は、ほかのあらゆる過程と同様に、一つの神秘ではある。しかもそれは自らの法則に従うのである。ここで我々は正統心理学の境界により近よりはじめるのだが、この境界を乗り越えようとは思わぬ。ただ次のことは確実に言えよう。根元意識から知的意識へ移行する度合は各人によって変化する。だが大多数の個人においては、自然の度合はきわめて低いのであると。
 根元意識よりの移行の過程は昇華(sublimation)と呼ばれる。潜勢的な知識の明確な観念のレアリティによって昇華するのが謂である。そして我々はいっさいの教育をこの過程だと見てきたのである。educationなる文字はラテン語の語源そのものを示している。むろん各性質を抽出してその充分なる完成に導くの意である筈だ。だが我々はそれを、愚かにも、根元意識、潜勢的ないし動的な意識を抽出して、限定された静的な、知的意識に導くことだと、考えている。
 これがD.H.ロレンス提起するところの『教育』education理論の全部であると、言ってよい。」223項


「『知識』以上の『知性』というものがこの世に存在することに眼を向ける必要がある。そして、その『知性』なるものは、場合によっては、人間の最奥処に沸騰している生命的活力源(狂気の一種と呼ぼうが、想像力と呼ぼうが、エロスと呼ぼうが、命名は各人各様の採択に委される)をどう捉え直し、どう人類的未来のために改造してゆくか、といった根本命題にまでつながってこそ、はじめて『知性』の名に値するだろうと思われるが、ここでは、前に述べた『品性に対する感覚』とか『根源的な力』とかを以て言い換えしておくにとどめる」390項


マッハの「思惟経済」
「学問的な伝達にはつねに記述が含まれております。すなわち、経験を代替し、従って経験を節約すべき、思想という形での経験の模写が含まれております。教育ということがそもそも節約なのですが、さらにすすんで、教えたり習ったり努力そのものを節約するために、総括的な記述が成立します。自然法則というものは総括的な記述にほかなりません。例えば重力の加速度とガリレイの落下法則とが判っていれば、ありとあらゆる可能的落下運動の思想のなかで模写するための、甚だ簡潔な指針をもつことになります。このような公式は、落下時間と落下距離とを対照した長大なリストの完璧な代替物です。この公式を使えば、別段記憶をわずらうことなく、いつなんどきでも容易に当のリストを作ることができます。」「思惟の経済が一番完成されているのは、形式化が最も進んでおり、自然科学がしばしば補助手段として用いている学問、つまり数学です。異様に響くかもしれませんが、数学の強みは不必要な思考を一切敬遠するという点にあります。思惟の操作を最大限に節約するという点にあります。数と呼ばれている整序記号からして、すでにおどろくべき単純化と節約の体系です。九々の表を用いて換算するとき、つまりかつておこなわれた計算の結果を活用するとき、対数表を用いることによって新規に行うべき計算をすでにおこなわれている計算で代替しそれを節約するとき、連立方程式をとくかわりに行列式を使うとき、新しい積分を既知の積分にひきなおすとき、そこにはラグランジュやコーシーのような――軍司令官の慧眼でもって新しく遂行されるべき作戦〔運算〕をすでに遂行された作戦の全軍によって代替する――人々の偉大な精神活動の梯がみられます。初等数学でも高等数学でも、経済的に秩序づけられた、いつでも使える形になっている算数経験である――こう申し上げても異論はないと思います。」「物理学は経験を経済的に秩序づけたものにほかなりません。この秩序づけによって、すでに獲得されているものの概観が可能になるだけでなく、経済のきりもりが立派におこなわれている場合と同じく、欠けている点や補充したい点がはっきりします。総括的な記述、簡潔な、それでいて混淆を生じない概念の記号づけという点で、物理学は数学と共通です。数学や物理学の概念の多くはそれ自身の他の概念を幾つも含んでいますが、だからといって頭脳の負担が大きくなるわけではありません。概念の豊かな内実を、いつでもひきだすことができ、感性的な明晰さにまで高めることができます。数多くの、秩序だてて何時でも使えるかたちにしてある思想が、例えばポテンシャルというような物理概念に包括されています。それゆえ、非常に多くの既成の仕事を内含している概念を使って簡単に操作できるのは、一向に不思議ではありません。/自己保存の経済から、このようにして、第一次の認識が発生します。伝達を通じて、数多くの人々の、かつては一度行われた筈の経験が、一個人に集積されます。経験の総和を最小の思考の支出で律しようとする個人の要求と同様、伝達が、経済的な秩序づけへとかりたてます。科学の謎めいた威力も実はこれにつきます。科学が提供するものは、一つ一つとってみれば、何ら方法的にアプローチしなくとも、充分長い時間をかければ誰にでも発見できるものにすぎまぜん。どんな数学の問題も、直接教えることによって答えをだせます。しかし適当な方法でやればほんの数分でとけるのに、やみくもに教えたのでは一生かかっても答えを出せないような問題も存在するのです。いくら働いたところで人間一人の労働では大した財産を築くことはできません。多数の人々の労働を一手に集約すること、これこそが富と力の条件でありますが、それと同様、つねに心掛けて思考を節約すること、そして経済的に秩序付けられた何千何万という人々の経験を一個人の頭脳に集積すること、これによってのみ、時間と能力とに限りある人間が知という名に値するものを、手中に収めることができるのです。/以上述べてきたところから明らかな通り、科学がまるで魔法を使っているかのようにみえるのは、実際には、市民生活においてもしばしばそういう例に出合いますが、すべて卓説した経済管理にほかなりません。しかしながら、科学の経済管理は、それが富を集積したからといって何人にも損失をもたらさないという点で優っております。まさしくここにこそ科学の天恵が存するのであり、科学が以って人類を済度する力もまた、実にここに存するのであります。」(マッハ/廣松渉加藤尚武訳『認識の分析』(りぶらりある選書)、一九七一年七月、法政大学出版局刊)」493項


「以下、若き牧口常三郎が(いや、最晩年までの牧口常三郎が、と言い換えたほうがいっそう正しい)ジョホノット教育学との出合いから獲得した最重要の贈り物を目録に記帳しておくことにしよう。前にも記したが、ジョホノットないし『如氏教育学』から牧口常三郎が獲得し樹立した謂わば三本柱は、《科学的理性主義》の論理思考と、《知識経済主義》の教授理論と、《幸福》を目的とする生活原理と、この三つであった。そして、越後荒浜村と北海道小樽区における幼少年体験をとおして《海洋精神》ないし《海の思想》を充分に身に着けていた牧口長七であったればこそ、同時に入学した同級生たちが鈍感粗雑にやり過ごした『如氏教育学』から、斯んなにも決定的な影響(ただし、決定論的な断定に陥らぬよう呉々も留意せねばならぬが)を受け止めることができたのであった。だが、この三つで全部尽くされるはずがない。本稿筆者は、最小限、七つ八つの項目を抽出すべきだと考えている。第一に帰納法的科学思考、第二に《知とは経済である》また《教育とは無駄な労力を省く術を学ぶことである》との学習経済理論、第三に《幸福》の実現を目的とする物心両面に亙る生命活動を、それぞれ、定立したことは前述したとおりである。次いで、第四には、同時代の先端科学技術や情報理論を積極的に取り入れる柔軟な思考および感受性を用意すべき方法論を案出したこと。第五に、ペスタロッチ主義開発教授理論を基礎となす『児童天性尊重』『自然の順序(既知ヨリ未知ニ、特殊ヨリ一般ニ、有形ヨリ無形ニ、簡単ヨリ複雑ニ)遵守』『五官ヲ教育スヘシ』『実物教育』『一歩々々進マシメヨ』などの命題を反復実践しつづけたこと。第六に、正しい進化論パラダイムの享受=理解に努めたこと(それは、のちのちアメリカ大企業家が悪用する『社会進化論』Socail Darwinismや、日本絶対主義国家官僚が民衆運動を抑圧すべく言葉巧みに利用=詐謀するあの『生存闘争』『優勝劣敗』の詭弁術sophistryとは凡そ正反対(むしろ対蹠的と称すべきであるが)の象限に位置していた)。第七に、民主主義的自律性や、ヒューマニズム(この場合、もちろん、人道主義=博愛主義humanitarianisumのほかに、本来的使用法たる人文主義=古典文化研究humanitiesの意味をも含めて用いている心算であるが)や、平和愛好思想をも踏まえつつ、《世界人類》(つまり、矮小な国家・民族・党派性なんぞ遥かに超越した、の意である)の一員として未来の方に視線を向けていたこと。――などなどの諸項目に関して、若き牧口常三郎は、ジョホノット享受理論ないし『如氏教育学』から精確かつ誠実に学び取っていたのであった。」584項

「一八八九(明治二十三年)四月、十八歳になったかならぬ”若き牧口”が、北海道尋常師範学校の仮入学生として《エリート・ステューデント》the elite studentの第一歩を踏み出そうとしているとき、師範生にとって一番大切な教育学の授業時間の中で『節約ノ秘訣ハ知識ニ在り』と告げられ、『事ヲ知ル益〜深ケレバ身労ヲ省費シ……奮励ヲ少ナクシナガラ成績ヲ多クスルコトヲ得ベシ」と畳み込まれ、ついには『智力ノ理法ノ知識ハ脳髄ノ疲労ヲ節約ス』とまで説得されたのである。これは、どうして《衝撃》shockにならずに済まされよう。教科書に書いてある事柄や教師が話す事柄を、何であれ、深い考えも無しに受け入れてしまうタイプの少年ならば兎も角(いや、実際には、このタイプの優等生が圧倒的に多いのだが)、ひとつひとつ佇ち止まってものを考える牧口長七少年にとって、無駄な努力をしないのを知識というのだよ、知性の法則に関する知識を身につければ脳髄の消耗摩滅をせうずに済ますことが出来るのだよ(英語原文をみると”Knowledge of the laws of the intellect saves wear and tear of brain"とある)、教育とはやみくもに頑張ることを止めて頭を使うように仕向けてやる指導法というに尽きるね、歯を食い縛る精神一倒何事か成らざらん式の教育は陰湿な封建時代に固有のものだから今後われわれ近代人のめざす教育は合理的かつ経済的なものに変革してゆく必要があるのだよ、との呼び掛けが、《驚き》surpriseにならなかったはずはない。吃驚仰天してしまったに相違ない。
 このことについて詳説したいのだが、枚数および時間の余裕が無い。茲では、牧口後年の最高傑作『創価教育学体系・第一巻』第一編教育学組織論ちゅうの最も名高い箇所、すなわち『今は世の教育学者に否、全教育家に向かって、新教育学建設のスローガンを提唱したい。/経験より出発せよ。/価値を目標とせよ。/経済を原理とせよ。/学習に於て、費用に於て、言語に於て、音声に於て、常に経済原理を旨とし、文化価値を目標として進め。/天上を仰いで歩むよりは、地上を踏み占めて、一歩一歩進め』(第二節 現今の教育学研究の傾向に対する批判的考察)という《創価教育学スローガン》を想起していただければ十分である。知識は経済であり、経済の考え方あってはじめて教育は教育たり得る、学習の経済また思考の経済そのことを科学である、とするテーゼは、牧口にとって、少年時代に邂逅した『如氏教育学』経由で継次的に学習=会得していったイギリス功利主義=経験論の全思考発展過程を着実に履み固めつつ”自家薬籠中”のものたらしめた手応えもあり、新教育学説スローガンとして提唱するにさいして相当に自信満々の思いがあった。これは自分の勝手な思い付きなんかではない、個人の恣意性に基づくどころか却って人類普遍の理性の働きに基づく理論構築なのだ、わが創価教育学理論および実践に賛同してくださる方は牧口常三郎個人に賛同なさっているのではなしに人類普遍の法則や論理に敬意を払っているのだ、というのが、牧口晩年の”自信”の根拠であった。具体的には、まずイギリスの功利主義=経験論を基本パラダイムに仰ぎ、次いでヘルバルト教育学理論を徹底的に学ぶことによってそれの背後に透けて見えるカント認識論批判哲学の梗概を準ることに成功して以後、大正期に入ってからは左右田喜一郎をつうじて新カント派二元論価値哲学の探求を押しすすめてゆき、さらにデュルケルム社会学理論の摂取に努め、これらすべてを縦糸横糸に織り上げて、牧口教育学理論は脱国家=脱民族の普遍的科学思考の精華となり果実となり得たのである。晩年に《仏法》に深く参入していったのも、それが東洋の『知』だからとか、アジア民族のエートスだからとか、日本人のアイデンティティだからとか、左様な特殊性や個別性の強調のためではなく、それとは反対に《普遍性》ないし《人類性》そのものに就こうとしたためであった。牧口の生涯を貫通してのは、人類普遍の”真理”を発見し且つそれとともに生きようとする《理性》の働きであった。」588項

この後ジョホノット教育学との出合いは近代日本教育全体にとっても幸運なことであったが、《科学的理性》も《普遍》も《民衆の自律性》も否定する方向に日本がいってしまったことが残念であると指摘し、創価教育学の基本パラダイムは、あの経済学で有名なアダムスミス『国富論』にあるという論述に入っていきます。アダムスミスは教育思想家として超一流だったらしいです。斎藤先生から言わせるとペスタロッチやルソーやマルクスよりも教育学者として上位に位置するみたいです。



ロレンスやトルストイの教育思想に、
現代の国語教育で特にリーディングワークショップやライティングワークショップがわりと近いのかなと思います。その中でもアトウェルなどより消極的な人がより近いと思います。しかしロレンスを徹底すると読書自体を強制することも拒否すると読み取れるのかな。そこまでいくとどうなのかなと思うけれど、考えさせられます(いやこれはよく考えると本当は自然で普通なのかもしれない)。天才的芸術家の詩的な表現として受け取るのか…。ただ胸に突き刺さってくるものがあるのは確かです。勉強嫌いな子はたくさん世の中にいます。なぜ勉強を嫌いになってしまうのか。


斎藤先生の研究は本当にすごいと思う。人文科学研究の最高峰にあると思います。アダムスミスやD.H.ロレンスモンテスキューの中に教育学があることを発見する、スペンサーは三育論ではなく二育論を主張したことを証明するなどそういう歴史認識を修正させられるようなことがたくさんあります。一般的にはアダムスミスは自由主義経済学のはじめの経済学者、D.H.ロレンスは卑猥は小説を書く人、モンテスキューは「法の精神」を書いているけれど教育学とは無関係、スペンサーは三育論だというイメージが多いと思います。


ニーチェのある著作はマッハの思想を否定することで生まれたらしい。マッハ単位もありますし、それだけ大きな存在だということだ。


斎藤先生の論文は総合するという読み方のお手本です。