牧口常三郎

牧口の立場は、子どもの自己発達力に基盤をおくものであったが、教師の「指導」責任を不可欠なものとする点において、情動的な「児童中心主義」と明確に一線を画していた。

p346

これは解題の部分

「子どもの自己発達力に基盤をおくものであったが、」という部分も、その後の部分もそれぞれ大事だと思う。


このしっかり指導するというところは大村はまと似ているところかもしれない。牧口常三郎はナンシー・アトウェルとも似ているところがある。


高校生の時に価値論を読んで、光を投げかけられたような気持ちになった。それで今は自分と対峙して、「おら!どすこい!どうだ!!」と立ち塞がってくる牧口先生。僕は「児童中心主義」よりの人だと思う。牧口先生が言われていることには大事な理があるので、それを上手く生かしていきたいです。






牧口の「文型応用主義」とは、次のように要約されている。
一、模範原文の解剖によって内容をなす思想の排列、その現れた文章系統若くは文章模型の直観。……(読方教授に於ける比較総合段)
二、応用範分の提出、及び原文と比較読解に依る文系概念の抽出並に応用方面の探究奨励及応用力活動の鼓吹。……(読方教授の応用段にして綴り方教授の発足点即ち其の第一次的取扱)
三、応用手段を指導し共作に依る文章模型応用能力の増進、即ち文章構成の会得。……(綴方教授の第二次的取扱)
四、児童の自由制作の奨励による文型応用力の完結。……(綴¥方教授の第三次的取扱にして、読方教授の応用段の真の完了)
 すわわち、「文章の全体を構成する思想の系統的排列並に其の連結手段等」を意味する「文型」を読方科において提示し、ついでその「文型」を応用した範文を示して原文との比較を通じて「文型」の概念を明らかにし、その「文型」を適用して児童と別の内容の文章を共作し、これを通じて児童に作文への自信を与え、自由作文の目標に達する、という過程をとる。応用範分を提示するという教師からの指導過程を設けることに、この「主義」の特色があり、この点で自由作文即無干渉・無指導という「児童中心」の綴り方論と真向から対立するものであった。直観ー比較ー応用というこの過程を牧口は「科学的」と名づけ、どんな子どもにも綴り方の面白さとそれへの自信を与える手続きであると主張した。このような「科学的」指導の重視は、牧口の教授論を通じる基底的な特色であったといってよい。牧口はこの案の「価値判定の標準は教育経済」にあるとし、「教育目的の概念中に経済といふ一条項を加へなければならぬ」と論じていた。

p456

これも解題のところ。全集の7巻。「綴り方教授の科学的研究」という論考への編集委員である佐藤秀夫さんの説明。この論考は大正10年に『帝国教育』という機関誌に掲載されたものらしい。今の自分に特に関係の深いところ。


此の論考の最後に「六、理解よりは実験」という見出しの文章があって興味深いです。
理解やああだこうだいうよりも、
よりもまず試してごらんよ、実験してごらんよ、やってみなよってところか。


思考よりも試行を大事にしたいという岩瀬直樹先生にも通じるかな。



共作というのはアメリカの作文教育で言うシェアードライティング。
この作文のプロセスがかなりナンシーアトウェルの授業と重なるところがあることに僕はかなり驚きました。そして現代の認知科学のアナロジーの研究などにも通じていて、その考え方と実践から抽出されるもに普遍性を感じました。



「教育経済」の視点は他にもある視点もふまえて考えないといけないけれど(これだけごり押しされたらきついかな)、欠かせないと視点だと思います。この視点を加える必要があると思う。



ペスタロッチ主義の影響

この 『改正教授術』巻一の 「教授ノ主義」という項目では、ペスタロッチ主義が9か 条の格言
に要約 されています。
「一、活溌ハ児童 ノ天性 ナ リ/動 作 二慣 レシメ ヨ/手 ヲ修練セ シメヨ ニ、自然ノ順序二従 ヒテ諸心力ヲ開発スベシ/最 初心ヲ作 リ後之二給セヨ 三、五官ヨリ始メヨ/児 童ノ発見シ得ル所ノモノハ決シテ之ヲ説明スベカラズ 四、諸教科ハ其元基ヨリ教フベシ/一 時一事
五、二歩=壇/全 ク貫通スベシ/授 業ノ目的ハ教師ノ教へ能フ所ノ者二非ズ生徒ノ学ビ能フ 所ノ者ナリ
六、直接ナル ト間接 ナル トヲ問ハ ズ各課必 ズ要 点ナカルベ カラズ 七、観念ヲ先ニシ表出ヲ後ニスベシ
八、已知ヨリ未知二進メ/一 物ヨリー般二及べ/形 ヨリ無形二進メ/易 ヨリ難二及べ/近 ヨリ遠
二及べ/簡 ヨリ繁二及べ 九、先 ヅ総合 シ後二分解スベシ」

これは
牧口常三郎の教授法
http://libir.soka.ac.jp/dspace/bitstream/10911/843/1/SK000003-15.pdf
から孫引き。