オウムに言葉を教える

オウムに言葉を教えるといえば、
最初に勤めた塾を思い出す。
なんとかシャワー方式という授業で、
言って言わせて、まさに詰め込みの中に詰め込み。
それで公立のトップ校に受かるのだから、残念なレベルの世界だと思う。


「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質」
あまりにも遠く感じるのは自分だけなのか。その塾だけの問題ではない。
そういうゴールだから、そういう授業に必然的になる。


学校も塾も基礎的といえば基礎的なのかもしれないけれど、
今考えると僕が経験したのはとてつもなく浅い世界だった。
僕は自分がもし本を読むようにならなかったらと考えると正直、恐ろしい気持ちになる。
これはたびたび思うことだけど、書いておこう。
義務教育って、そんなところで終わってしまってた。
「平和で民主的な国家及び社会の形成者」というゴールから遠すぎる。


無知の知って、
どんな経験する中で自覚できるのだろう。
ああいう受験勉強で物事を知った気になっていたとしたら、残念過ぎる。



知らないことだらけなんだなって心底気づけたのは読書のおかげ、学校以外の経験のおかげだと思う。
もっと限りなく深く広い世界があることに気づけるような経験を若い時にできるように設計するべきかもしれない。




何でこんなこと思い出して考えているのだろう。どうでもいいとも思うけれど、
高校入試、大学入試という重要な問題に繋がっているのか。


平等性だか分からないけれど、
やはり何か歪んでいると思う。この教育の大事なゴールが可笑しいと、
それに続くものも必然的に残念なものになるしかないように思う。


ドイツか、ドイツのすべてがいいわけではないだろうけれど、ドイツ、オランダ、アメリカなどと比べて日本っていろいろな意味で遅れていて、後進国だと思う。日本の一部は違うのだろうけれど。


そういえば、あの時には塾の講師だったから、公立の入試問題をたくさん読んだ。