スタンス

1、2年前の時のこととか思い出して怒り出す困った子がいることがあるけど、
自分は、6、7年前のことをお酒を飲みながら思い出して怒り出すことがある、困った人です。


前に(何年も前のことですけど)算数に対する考え方が違う上の偉い人たちに研究を指導されることがあった。急な事情で担当が変わると、指導者の考えが違い、指導案を書き直しすることになった。普通の感覚の先生がギョッとするくらい作り込む指導案だったのだけど、それが書き直しになったのだ。休日に研究主任の先生も来てくれて、書き方を教えてくれたことを思い出します。


僕は指導される時に、上の人のスタンスをよく観察しています。

昔は文科省の考えなどを教育委委員会の人たちは伝える役目があったのかもしれないけれど、それを今ではネットでアクセスして誰でも読めるようになりました。上の人はそう言う情報を伝えるのと共に、自分の指導スタンスはよく考えた方がいいかもしれない。伝えることの精選と伝え方の工夫、伝える相手の理解などが必要がだと思う。文脈の理解もなしに、的外れなアドバイスをされると、正直、何を言っているのだろうと思います。教員免許講習の必修科目は、ネットレベルよりも乏しい残念な内容でした。まともな本を一冊読んだ方がいいと思います。こんな具合に本当に嫌だったことは何度も思い出してしまう。



原理的に唯一の正しい教育方法なんてないのに、わかったような顔をして、自分が絶対に正しいのだと言うスタンスの人たち(例は出さないけど、昔から今も存在する。自分の教育団体の考えや方法は絶対なんだ!とか。これって学問や哲学、科学と対極にあるスタンス。科学の原理は反証可能性であると言われるけど、その通りだと思う)と、
そう言う原理的なところを理解して、相手を理解しようと努めて、こう言う方法もあるよ、こうしたほうがいいのではないかと、ためらいがある人たち。

全然違って、大雑把に分けると、こう言う二つのスタンスが指導する人たちにあると思う。





知性とは、ためらいがあることだと恩師が言われた。

知れば知るほど、人は逆説的に無知を自覚する。だからためらいが生じる(それでも生きることは決断することだけど)。


僕たちは、相手を完全に理解できない。必ず誤解してしまう。なぜなら、相手の生い立ちや、相手の心、相手を取り巻く状況など、完璧に認識することは不可能だからだ。相手を理解しようと努めるが、相手のことを誤解しているかも知れないと言う前提がある人(ためらいが生じる)と、相手を理解していると勘違いしている人では、かなり違うと思う。