- 作者: 斎藤正二
- 出版社/メーカー: 第三文明社
- 発売日: 2010/08/01
- メディア: 単行本
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本論から脱線する話もおもしろいです。
「『創価教育学を一言に要約すると、どうなる』といった虫のいい質問を受ける機会があります。そういうとき、即座に『頑張ることをやめよ、頑張らずに頭を使うよう努めよ、というふうに要約し得ます』と回答することにしています。すると、相手の質問者は、露骨に惘れ顔をしてみせ、わたくしの前から立ち去って行くのを常とします」48項 (本文に強調があったり、漢字を変換できないところがあったりして引用が少し正確でないです)
この後の「頑張る」という言葉の考察がおもしろかったです。よくこの言葉を使っていたので、反省しました。
スペンサーの三育論という話。これはスペンサー自身が自分の著書について語っている本を読むと嘘だということがわかります。当時、知育とか徳育とか体育とかの論文をそれぞれバラバラに出版したかったのですが、それができなくてまとめて出版したということです。スペンサーは、三育論を主張したかったのではないというのが事実みたいです。でも嘘が当たり前になっている。しかも徳育の論文では、道徳教育なんかするなと主張したかったとスペンサーは述べています。
何かの本でカントは観念論の祖みたいなことを読んだことがあります。これも大学時代に斎藤先生の論文や「純粋理性批判」を読んで嘘だいうことがわかりました。「純粋理性批判」の一番最初に認識は経験からはじまると書いてあります。
ヘルバルトは、何かの本で読んで詰め込み教育というイメージがありました。でも実際は詰め込み教育に反対した人でした。
戸田先生の「バカ暗記はやめろ」という話(これは暗記を否定しているわけではないです)を思い出す。これはたぶん記憶するまえに考えよということです。
「従って教師は知識の詰め込みは書物に譲つて、子弟自身が知識せんとする働きの補助訳となる。」牧口の言葉。
ファシリテーションだと思う。「手本を示す主人ではなく手本を導く伴侶」にというところ。
斎藤先生の話。
傑出している人は優れた人に邂逅していることを知らされる。でも、正しくは先生の方が幾分凡庸でもかまわないのであり、要は弟子のほうが冠絶していれば、平凡師匠の少ない美点長所を成熟完熟してくえっるというのが「事物の理路」ではないかといわれています。関係性の話だから、半分くらいうんうんと思うところがある。たしかに学ぶことに優れている人はそうなのだと思います。