「理論にインスパイアされた眼鏡」

「理論にインスパイアされた眼鏡」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2015/02/post_2373.html


読書と社会科学 (岩波新書)

読書と社会科学 (岩波新書)

上の記事を読んだら、この本にたしかある「概念装置」という言葉を思い出しました。
理論の実態は言葉、言葉には抽象度がある。概念の眼鏡をかけることではじめて意識できることがある。経済現象の一部は目には見えないけれど厳然と存在している。経済の理論や概念を使うことではじめて意識したり考えたりすることができるようになることがある。それは教育においても変わらないかと思う。教育哲学は高度に抽象的、教育学のモデルはそれと比べると抽象度が低いのかもしれない。どちらにしても言葉は認識と思考、コミュニケーションの道具に過ぎないと思います。



プラトンの対話篇のように重要な概念は定義をはっきりさせて考えを進めていくこと。



質的研究の話も思い出しました。
厳密な意味では違うのかもしれないけれど(構造構成主義ではそれもよしとしていたと思う)
自分の経験をモデル化、一般化するだけでも理論になります。それはそれで役に立つ。
経験だけで一般化することってあまりないかもしれない。もともとある概念を使って思考をしていて、あるモデルや概念があれば、経験、実践によってそのモデルや概念への信念がより強固になったり、または修正されたりするかもしれない。



それにもともと経営学でも教育学でもそこにある理論やモデルは経験から出発して概念化したもの。むしろ実践を離れたモデルや概念なんて、教育学の世界にあるのかな…。



結局、研究と実践の橋渡しというのはいまいち良く分からないかもしれない。実践から離れた教育学なんてあり得るのだろうかって思います。その教育学の理論や概念を学んだ時に、やはり自分の経験と繋げて理解することになる。教育学の現場での経験がその理論の理解にとても役に立つ。だから仕事をはじめてから、理論の探究っていうのが本当の意味で、役に立ち、意味をもってくることになると思う。たぶん教育現場の経験なしに、理論を学んでも誤解するだけかもしれない。被教育者としての経験があるからまったく理解できないということはないだろうけれど。



結局、その理論を自分の経験と繋げて再創造しないとたぶん理解できないのだと思う。子どもたちが算数の概念を理解する過程と変わらないと思います。


ショーペンハウワーとかニーチェの読書への言葉も思い出した。彼らが言っていることはこの問題と似ていると思う。


あのチーム発達段階のモデルも生半可な理解になるかならないかは、その読み手にかかっているのだと思う。そのモデルでも現実にはどこかの段階をすっとばすこともあるかもしれない。だからそのモデルが間違っていて、意味がないということにはならない。多くのチームやはり同じ発達段階の特徴を経験することになる。


僕は研究者の理論を学ぶことや世界中の本を読むことはすごく大事だと思う。
自分の経験だけだと視野が狭くなってしまう。
その理論は消化して結局、自分の中で再創造(解釈)することになる。



研究にはアカデミックなルールがあると思う。それに従わないとその世界では認められない。しかしその本質や普遍的な思考法はプロだろうがアマチュアだろうが変わらないと思う。