読書記録 チームの力  (3) 

すべての人間に共通する心の本質とは何か

人間とはどのような心持っているのだろうか。すべての人間に共通する本質とは何だろうか。それは、「すべての人間は関心を充たして生きたいと欲してしまう」ということだ。

(p151)

スタッフのモチベーションを高めるためには、関心を尊重したマネジメントが肝となるが、それにしてもほとんどの場合、一定の「やらざるをえない仕事」があるのが仕事というものだ。そうした仕事の現実的制約を考慮すれば、”適材適所の本質”とは、「できるだけその人の関心と能力にみあった仕事や役職を与えること」といった表現のほうが適切かもしれない。本質を定義する際には、このように洞察を深めていき、微細な表現にも反映させていくことが重要となる。

(p158)

モチベーションの問題は学習でも変わらないと思った。そういえばイエナプランの学習観は仕事=学習だったような気がする。学習指導要領などから、学ぶことが決まっている学習内容があって、それをカバーしつつ、本人の関心のレベルに合った選択ができるように配慮していくことが学習においても重要。そのように学習をマネージメントするのが自分の仕事。



この人間の原理。僕はやはり自分が学んだきた考えと比べてしまう。比べて吟味するのはいいことだと思う。僕がこの原理で思い出すのは、仏教、中国仏教で考え出された十界論という、人間の原理、人間に共通する性質を10種類に分類したもの。西條さんの構造構成主義の人間観、人間の原理は、人間に共通する本質の全体はなくて、部分に過ぎないというのが感想です。ただこの西條さんが考え出した人間の原理は確かにすべての人間に共通するものだと思う。これを無視する限り、あらゆる組織、チーム、学習のマネージメントは、確実に失敗に終わるであろうことを容易に推論できる。


いや、でも西條さんの原理の射程圏はよく考えたら広い。ただの人の関心っていうのは、いろいろある。その中身についての考察がないかな。そこまでの考察をしているのが十界論というところか。ただ仏界に関しては、おそらく証明もできないのかもしれないし、一人の人の関心という問題を超えているかもしれない。「仏界は軌道」という言葉を思い出す。この「仏界は軌道」という表現は知識の深さも関係しているけれど、詩人の天才的ひらめきだと僕は思う。

カントが善の意志は何よりも価値があるって言っていたけれど、何よりもかどうか知らないけれど、その良心がとても人間にとって尊い心(関心)であることは間違いないと思う。
トルストイが言うように「善き思いは、やがて善き行為に繋がる」に繋がるのだ。


 ここで言う本質とは、その事柄(や、それを指し示す言葉)の”それをそれたらしめる”最も重要なポイントを表現したものであり、「真実」や「真理」といったものではないことに注意が必要だ。本質を真理だと思ってしまうと、検証可能性、更新可能性に閉ざされてしまい、異なる本質を真理と信じる人の信念対立に陥ってしまうのだ。
 また、ここにも”価値の原理”は適用されるため、本質定義の有効性もまた関心に応じて変わる、ということも念頭に置いておくとよい、つまり、関心の置き方によっては、また違ったポイントを加えたほうがより有効になるということもありうるのだ。

(p159)


原理っていうのも、更新可能性が常に残されている。とても重要なところ。




できるだけ関心と能力にみあった仕事を

 このときに「一番やりたい仕事」だけにとらわれると現実的にはマネジメントできなくなるため、「人間は多様な関心を持っている」ということを念頭に置く必要がある。

(p156)
大事。学習でも同じ。



本質とは、ある事柄に共通する最も重要なポイントのことであった。そのため本質から外れると必ず失敗する。補助的手段で誤摩化すことができたとしてもそれは一時的であり、持続的に成功し続けるためには本質に沿っていなければならないのだ。

(p165)



人間の原理に適ったものでグーグル社の20%ルールという取り組みは面白い。仕事時間の20%を好きな時間に費やせるというもの。それは社員に業務以外の取り組みを認める手段であるとのこと。こういう時間を混ぜていくことは学校でもできると思う。20%、自分で選んで計画して学習とか。具体的に思い出す事例はイエナプランのブロックアワー。めあてがなければ、教科の授業時間として認めないという考え方があるから現実的には難しいか。だとすると総合のめあてには合っているから、やることが可能なのは総合の時間か。私立や国立のものすごくレベルが高いところには、こういった研究の自由が職場に認められるところがある。ふつうレベルの公立にはあまり研究の自由はない(本当はそんなことないのかもしれないけれど、どうしたらいいのか分からない)。だから職場の研究はお仕事だと割り切って、休日に好きな研究をするしかない。今年度社会科の研究。脱線するけれど、講師の先生が社会科の「学習問題」にはいろいろな定義があるから、校内で一つの定義を共有するといいということを言われていました。本当にその通りだと思う。この研究で重要な要素である「学習問題」に定義を与えないのは研究として根本的に問題があるように思う。定義がないと、これが学習問題で、これは学習問題ではないということは、言えない。つまり定義がないということは、そういった共通の理解や判断がないまま研究をしていることになります。僕も少し調べてみようと思う。



ボランティ同士の信念対立

 この問題を構造構成主義の観点から根源的に考えていこう。我々が「それは正しい/間違っている」というとき、それはすべて「価値」について言及していると言ってよい。「良い/悪い」というのは、おしなべて価値判断にほかならないからだ。
 では、価値とは何に照らして見出されるのだろうか。構造構成主義では、この問いに答えるために”関心相関性”という中核原理を軸に”価値の原理”として定式化した。
 ”関心相関性”とは、思想的には、竹田青じ(「じ」がうまく変換できないです。すみません)、ニーチェの「力の思想」やハイデガーの「気遣い(関心)」の議論を踏まえて、「欲望相関性」として概念化したものを、フッサールの「志向性」によって基礎づけ、構造構成主義の中核概念として定式化したものだ。

 この「関心相関性」を「価値の原理」に焦点を絞って言えば、「すべての価値は、欲望や関心、目的といったことに応じて(相関的に)立ち現れる」ということになる。つまり、関心相関的観点からみれが、「価値がある/ない」「良い/悪い」「賛成/反対」といった価値判断は、当人の関心や目的に応じて立ち現れている、ということを自覚的に認識できるようになるのだ。
 では、その「関心」は何によって生じるのか。
「契機」、すなわち何らかの「きっかけ」があって「関心」を持つようになるのである。これは桐田敬介(1986−、教育学)がロムバッハの理論を経由して定式化した”契機相関性”に基づく考えrである。
 つまり、関心相関性と契機相関性によれば、ある「きっかけ(契機)」によって、何らかの「関心」を持つようになり、その「関心」に応じて物事の「価値判断」をするようになるということが洞察可能になる。この「価値」→「関心」→「契機」といったステップをさかのぼり、自他の価値判断の根拠を洞察する視点を”契機ー関心相関的観点”と呼ぶ。

(p185)


価値の対立が起きた時に、関心や契機のレベルまで遡って、お互いが理解することが、対立の解消に繋がる。誰もが物語をもっていると西條さんは言う。


 相手の(物語)に思いを致すことで、自他の価値判断の「相対化」につながる。そうすれば、少なくとも単純素朴な信念対立の状態から抜け出すことができる。相手の(物語)を理解できれば、対立する主張が「絶対悪」ではなくなる。相手の(物語)に対する想像力をはたらかせることができる力、それは教養として育めるものだ。

p195


子どもたちとの関わりでも変わらない重要なことだと思う。子どもたちはいろいろなことをやらかすことがあるけれど、その子の関心と契機、その子の歴史と物語までよく知れたらと思います。



ざあっと僕の関心があるところを中心に引用しながら振り返ることができました。西條さんのように哲学から学ぶことができる普遍的な思考法を生活に役立てて行きたいです。素晴らしい本をありがとうございます。いろいろな方におすすめしたい本です。西條さんがこの本質学、哲学の考え方をどのように組織運営に使ったのか、ぜひ興味がある方は読んでみてください。


僕はこの本と今まで学んだことを通して、普遍的な思考法と、その有効性について理解を深めることができました。よりよく生きることに西條さんから学んだことを活かしていきたいです。