読書教育

言語っていうのは、
社会の産物であり、社会そのもの。
また僕たちの社会の宝でもある。その宝を継承すること。
やはり読書を継承することが社会化の早道。


読書教育の原則もいくつか明確になっている。とてもシンプル。
それは自分に合った本を読む時間が十分に確保されているとか、
自分に合った本が手にとれる範囲(例えば家や教室)に十分にあるとか、
そういったこと。考えてみれば当たり前と思えるような簡単なことだけど、
僕が思いつきで言っているわけではないです。
科学も社会の産物だけど、
その科学の蓄積からも(科学的な根拠に基づく昨今の結論でもある)、自分のここ8年間くらいの観察からも間違いないことだと思います。
細かい工夫や技術はあるけれど、
はじめはこういった素朴で力強い原則を徹底できるかできないかでしかないと思う。



原則的な改善に努めないで瑣末なことに拘泥しているのは賢明とは言えないと僕は思う。
僕は優先してコストかけるべきことがあると思う。
それを指導するのが理論、科学、哲学、歴史の研究などだと思う。


僕は書いたことないけれど、
論文には、規則がある。
その規則を守るからその論文やその結論に権威が生じる。
無批判には受け入れられないけれど、いくらか、とりあえず信じるに値する権威が生じる。


研究者や現場の先生による
科学的な論文などの省察によって、
読書教育でもいくらか分かっていることがある。
それを認識し、徹底するべきだと思う。その価値がある。