歴史的真正性か、なるほど〜。その特定の宗教に熱心な人は、確かにみんなそうかもしれない。だからこそ、そこから自由になる視点も大切なのかもしれないですね。本当ことを知りたいというのは人情でもある。

こういうことかな。特定の宗教からレーヴィン的懐疑を経て普遍へ。

デカルトの暫定的道徳が大事だと思います。人によるけれど、キリスト教でも仏教でもイスラム教でも、できれば、生まれの宗教に足場を残しつつも、普遍の視点もあることが、幸せに生きやすいかもしれないとも思う。むしろ、それがないと厳しいものがあると思う。独善の狂信になってしまう可能性が高すぎる。

デカルトの暫定道徳は、面白い。デカルトは真理の探究と実践、生活を分けて考えている。革新的なところと保守的なところと同時に合わせ持っている。彼の賢明さ、優しさを感じる。

もう特定の宗教は捨てて、無宗教になる人もいるけど。それはTwitterを見ていると、本当に色々な人にネット上だけど見ることができて、わかる。それも選択肢になると思う。生まれの宗教も人によって違うし、家庭環境などさまざまな状況も違いますし、その人にしかない悩みがあるわけです。

特定の宗教から離れて、普遍的な宗教的なものを自分の中にも持つこと人もいるだろうし、宗教的なもの、超越的なものは何も信じないという人もいると思う。それは自由。

僕は、デカルト的なスタンスがいいなあと思います。僕はデカルト的な立場だ。それがしっくりくるし、心地よい。

普遍から見たときに、生活としての特定の宗教に折り合いがつく思想的強度、真正性みたいないとだめかもしれない(あまりにも理性と合致しないというか、不合理であるというか、それで信じられなくなるということがないように)。それがあるのがキリスト教とか仏教などの世界宗教の特徴かもしれない。信じられるだけの宗教としての思想の精度がある。自分なりに考えて生まれの宗教からキリスト教徒になる人もいるし、キリスト教から仏教、その逆もあるし、人によっては、特定の宗教から離れる人もいるし、特定の組織から離れる人もいる。無教会みたいな内村鑑三みたいな人もいた。スピノザは組織から破門されている。

デカルト的には、できれば穏健に組織にもいた方がいいとう保守的なものを支持するだろうと思う。それでも、スピノザみたいなに、そうならない場合もありますよね。その方が幸せな人もいる。それはその状況、その人、それぞれだ。

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