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学級づくり―ニュージーランド教育現場から387の提案

学級づくり―ニュージーランド教育現場から387の提案


課題が浮き彫りになりました。


肯定的な強化がまだ少ない。勝手に戦略が強みだと思っている前の職場の先輩に後手にまわってるといわれたことを思い出しました。僕が肯定的な強化をもっとふやすには先回りして先手、布石をたくさん打つ必要があると思います。叱ることも時には必要だと思いますが、ほめるなど肯定的な強化が叱るよりもベースにあったほうがいいし、肯定的な強化のほうが子どもたちのとの人間関係がよくなるだろうし、子どもたちが無理なく動けるように思いました。あとはいいところ見ようと意識すること。それも徹底的に。すべての明るい面を見れるようにがんばる(実際は無理だけどそのつもりで)。経験的に自然には悪いところを見てしまいがちです。


脅しを使って実際に行わないこと。これは罰について。これはほとんどやったことないけど、前年度は3回注意があったら、タイムアウトというのが引き継いだ前の学級にあったので、試しに子どもたちに忠告してやってみたのですが、結局脅しだけで、ほとんど罰することがなかったです(一回しか実行しなかった。)この手段を使って、罰を実行しないなら、やらないほうがいいと思います。師匠の教育は「徹底的に内発的に」という教育哲学と罰は反するので、罰はできるだけ使いたくないですが、まったくいらないかというと違和感があります。リアルな社会を考えても罰はあるし、それがまったくない社会は想像しにくいです。でも人間がもっと成熟すると訪れるのかもしれないです。つまり家庭や学校、それ以外すべての人間関係の教育の質がもっと高くなれば、罰のない社会もあるかもと思う。無策よりマシだと思いますが罰ってやはり安易だと思う。もっと違う方法で子どもをよい方向に変えられると思う。ちゃんと話したほうがいい、子どもと一対一で。


教育哲学がまだ自分のものなってない。自分の教育哲学をもっと血肉化すること。まだハンパで、安易な方向でやってしまうことがいっぱいあります。できるだけ内発的にできるように前に進もう。


「学校教育であれ社会教育であれ、教育は、強制や押しつけではなく、徹底して内発的になされなければなりません」池田大作全集105巻346項

最近見た映画山田ようじの『学校』を思い出す。ものすごくよかったです。登校拒否が教員の生徒に対する温かい心と信頼で終わったシーンを思い出します。本当は、勉強するしない、学校に行く行かないは本人が決めることです。

「罰や怖れ、強制によって生み出される<よい行動>というものは、 一人の人間である子どもの個人的な生においては何の意味もないものであり、社会にとっても意味のないことである。」ペーター・ペーターゼン