ヘルバルトの類化は、カントの統覚、ドイツ語でapperzeption(英語だと似ていてapperception)と同じ言葉だったらしいです。携帯の大辞林で「統覚」を調べると「カントの哲学で、多様な経験を総合して可能にする意識の統一性(超越論的統覚)」とあります。この辞書の定義ってどれくらい正確なんだろう。10年前くらいに『純粋理性批判』など読んでいるはずだけど、ほぼ忘れてしまった。何を問題として、どんなことを論じていたのか、少ししか覚えていないです(でもちょっと覚えていることが、いろいろなテキストを読む時にとても助かりました。カントがあちこちに登場するからです)。
さっき読んだ論文のおかげでヘルバルトのapperzeptionの意味はある程度掴めているのでいいかな…。それにしても難しい…。カントまで遡って考えると難しいです。難しいけれど、仕事のというよりも人生の足場となる大事な知見だと思う。
28歳の時にデュ−イが書いた『心理学』という論文でヘルバルトの類化について書かれたところを、25歳だった牧口常三郎が違う論文で引用しています。ヘルバルトからの繋がり。しっかり理解したい。
難しいといえば難しいし、簡単といえば簡単なのかもしれない。類化は、類推とほぼ同じ意味(類化の定義と類推の定義はほぼ重なる。ただ定義だけでは本当ところは分からない、理解できないという深さの存在も、今、認知科学やヘルバルト教育学、カントまで遡っていて分かる。というのは、定義をしても、定義で使われる言葉についてどうなのっていう話になるから。)。カント、ヘルバルトまで遡って、類推について考えることに意味があるのかと思ったけれど、たぶんある。
牧口の25歳のときの論文で類化を説明した時の事例と、昨日読んだ認知科学者の今井むつみさんの論文の事例がとても類似していて、びっくりしました。面白いです。
とにかく楽しいからいいかな。牧口先生について学ぶのは楽しい。できるところまで認識を深めていこうと思います。