魯迅ゲーテについて恩師が大学生に向けて語って書いたものをそれぞれ久しぶりに読んだ。
自分は諦めや諦念が人生では大事だと思うようになったのだけど、真逆の精神に触れる感じがする。
でもそれがいいんだと思う。実際に心が動いて目覚めるものがある。一方、反発するものも少しだけど感じる(こういう精神を若い人に教えることにはどのような意味があろうのだろうかとか。そこにポジティブにも、ネガティブにも捉えられるものがある。効率とか合理性とかよりも若い時、がむしゃらに頑張った方がいい時というものが、タイミングあるのかもしれないとも思う。そこ逃したらいけないタイミング。自分のことを振り返ると、自分なりに熱い気持ちで学べたことは一生の心の財産になっていると思う)。こんな生き方は、誰でもできないという気持ちも出てくる。魯迅なんかは、わかりやすいアンパンマンのような自己犠牲的な人に見える。本人は、アンパンマンと同じでそうは思っていないのだろうけど。自分が削れていっても喜んでいるのだから。
人生には、諦念も大事だと思う。にもかかわらず諦めないで何をするかなんだと思います。
プラトンについてもあって、それは本にはなっていない。実家に新聞の切り抜きが眠っているはずで、また読みたい。実家に帰ったら探そう。
魯迅みたいには、全くすごくもなく、平凡で無理もする気はないのですが(と言いながら時に少し無理していることがよくないと思う)、同じ方向の生き方を気づいたら自分もしているのかもしれないですね。自己犠牲的ではないけど(この言い方が嫌なのかもしれない。捧げるというのも抵抗がある人もいると思うけど、ジンメルの捧げるという言葉の方が気持ちがいい)、自分も人も育むのを助けるという教育がテーマなのが似ているというか一緒。自分のペースのこの道を進もう。
合理的っていうのは本質的に冷たいのかもしれません。冷静の頭だけではなくて熱い心を失ってはいけないのだとも思います。