わかっていないということをわかるようにするが学習で大切だいうメッセージがこの本にある。如何にわかっていないかということを自覚するから、分かろうという好奇心が出てくる。学習の鍵の一つだと思う。
すぐに二つのことを思い出す。
坂内智之先生の投稿やブログをずっと読んできているけど、何度か、子どもが如何にわかっていないのか、わかるようにするというのを書いていたのを読んだことがあります。
 これに関わることで大学時代のことを思い出します。一年生の時に、創立者のトインビー対談を読むゼミをとっていました。そのゼミは、今は立命館大学のグローバル教養学部の学部長をしている前川一郎先生のゼミでした。知の権化みたいなキレッキレの先生でした。一回のゼミで、見開き2ページくらいしか進まないような精読の授業で、例えば日米和親条約など、そこに出てくる言葉について説明を求められるのですが、答えられなかったりするわけです。笑顔で「こんなの説明できないなんて話にならないよ」くらいは言われました。いかに、知らないのか、わかっていないのかというのを突きつけられるゼミだったことを覚えています。実際に本当に今もそうだけど、本当に無知だった。前から書いたことあるけど、大学に入るまでに新書を一冊も読んだことなかったから(ほとんど小説ばかりだった)。それで、知りたい、学びたいって、強烈に思いましたね。話がずれますが、その時の法学部の加賀学生部長には、「大学生が学ばないことは罪だ」とも言われました。その時の同級生も先輩も前川先生もそうだったけど、学ぶという次元で全然違うものを目の当たりする経験だったと思います。自分はそんなにストイックに学ぶ悦びに突き進む人がいないところで育ってきたので、環境というか、人間の違いみたいなのをとても感じたことを思い出します。でも、別に卑屈になることなく、自分なりに後悔のないように4年間、学び抜きたいと思えました。あの時にアルバイトをしないで学べたのは、すごく良かったと思っています(アルバイトは、大学に入る前にそれなりにやりました)。
一言一句、助詞とか助動詞まで細かく、他の知識とも繋げて読む、精読では普通なのかもしれないけど、句読点まで考えて読んでた(いかに絶妙な句読点の打ち方なのか前川先生が語っていたのを思い出す)。このゼミくらい細部まで読む経験をしたことがなかったので、衝撃的でした。こういう読み方はしかことなかった。小学校でも中学校でも高校でも、ここまでは細かく読まなかった。
動機付けの理論でもギャップ理論みたいなのがある。いかに自分が知らないか、わからないか、それを自覚することでギャップが生まれる。、そのギャップを埋めようとする動機付けが出てくる。そういうことがあるわけです。
逆にわかりきったことは、脳が飽きちゃうんですよね。これはアドベンチャーに繋がってくるけど、挑戦しがいのある課題でないと意欲が湧いてこないんです。
教育の設計のすごく大事なところだと思います。
今も、わからないことだらけだから、学び続けたいと思う。
子どもたちの多くは、わかっている、知っていると勘違いしているので、そこに気づけるように教育設計、教育実践して行くことは大切だと思う。