ブルデューを解説でしか知らないけど、文化資本なども関係するのだろうけれど、
よい学び手って存在して、その人の成長は驚くものがあります。よい学び手は相手が誰であろうと、最大限に学習の成果をつかみとっていくと思う。たぶん格差って広がっていくものではないかと見ていて思う。だから教育実践の中で、教育的な格差が広がっていくことを問題にすることに意味があるのかなと思う。

比較的格差が広がらないから、よい教育だとは必ずしも言えないと思う。格差を広げたくなけば、自然と伸びようとする学び手たちの邪魔をすれば、格差の広がりを妨げることができると思う。でもそんなこと意図的にやる人がいるのだろうか。いるのかもしれない。

すべての子たちに、また一人ひとりのニーズに合った合理的配慮しよう、子どもたちが学習していくのを支えて行こうとなれば、必然的に優れた学び手たちがもっとも力を伸ばして行くと思う。

だから教育の中では、格差がどうこうよりも、優れた学び手、その知性、精神を育てるのを支えることが根本的にできることだと思う。

教育の中の格差の考察ってどんな意味があるのだろう。
社会の問題。
奨学金や学費など、そちらのほうが問題か。

格差が広がる教育、広がらない教育か。

でも教育実践の中で、
格差が広がらないようにとか考えないかな。
自分のできる精一杯で子どもたちを支えていくだけ。

教育格差は政治の問題だと思う。
バーンステインは教育方法によって生まれる教育格差を問題にしているみたい。やはりちょっと読んでみたいけど、正直どうでもいい気もする。

学力格差なんて広がるかというか、
もう仕事のはじめから存在している学力格差を前提にどうするのかが問題。

でも公立の学校自体が格差を少なくする営みか。
仮に学校がないと考えると、家庭環境などの差が、そのまま学力格差になるけど、学校があるから、その格差が少なくなる。

学力格差を是正する挑戦かあ…。
あまり仕事する上で考えたことなかったかもしれない。

公平は強い人の立場に立つことに繋がる。片側に立つこと。
そう考えると、またどう仕事すればいいか実践や考えが違ってくるかもしれない。片側に立つというスタンスは、とても大事かもしれない。そうすると何もかも変わってくるかも。

というか、学力格差より前に、
格差と貧困のために苦悩の中にいる現実があって…。

話が変わってしまうけど、
教員が子どもたちに学ぶ姿勢、
精神に大きな影響を与えていると思う。
語りの力も大きいし、教師がもつ方法の様式の力もある。


格差の広がる教育とか広がらない教育とか、考える意味あるのかなと思ったけれど、
あまりぐだぐだ考え込んでもしょうがないか。
よく分からない。


湯浅さんの本に戻る。溜めを作ること。それを支援するのが僕の仕事。今、自分の身近にあることと向き合ってこう。