子ども中心か教師主導か

子ども中心か教師主導かということにうんざりっていうのはよくわかります。
ある方が子ども中心だという体育の授業に、いい授業を見たことないとおっしゃっていました(でもいい授業もあると思うけど、その方が見たものに限る話)。


どちらかに比重があるというのはあっても、
あれかこれか、一方だけというのは僕は学習者としていやだな。
どちらの要素も必要で重要だとしかいいようがない。
片方だけでよかれとするのは間違っていると僕は思う。
片方だけにする、または片方を軽視すると
見えなくなってくることが増えるし、貧しくなっていくだろう。


仮に全部教師主導で教師が計画をがちがちに決めてコントロールするなら、子どもたちは極端な話、何も考える必要ない。子ども中心、子どもの視点を抜くのだから、子どもに思考させるようなことをしては完全な教師主導とは言えないです。徹底的にシャワーのように教え込めばいい。でもそれは現実的ではない。それは認知や理解が何かということを考えても。知識を構成するのは子どもたち。


仮に子ども中心だけで、好きに自由にやっていいよだけ、そこには学習内容の精査もなければ、配列もない。サドベリーみたいなところがあってもいいと思うけれど、サドベリーの子がいざ学ぼう!と思ったら、大人主導の計画的な学習材料や配列、そういった教育の計画的な財産がその子たちを助けることになると思う。


どちらかなんて、思考実験しても誤っているという結論になるしかない。観察からもあり得ない。


この二つの統合について100年以上前に牧口が検討している。境界の人。



子ども中心主義だって言われる優れた実践の、
計画や教師の働き、思考って凄まじいものがある。



優れた教育実践を観察すると、必ず二つの要素がある。
子どもたちに寄り添っている部分もあるし、教師の働きや計画的な部分もある。
もし優れた実践に片方の要素だけしかないことがあるなら、教えて欲しいです。